放課後の準備室、先生と。
・
呼ばれてもないのに来てしまうのは、心のどこかで先生に悪いと思っていたからだろうか。
真っ暗な廊下を歩いて、理科準備室の前に立つ。閉め切った扉の向こうに、微かな光が漏れ出ている。
こんこん、と軽くノックしてみる。
「どうぞ」
先生の声が、返ってきた。私がドアを開けてはいっても、先生は特別驚いた様子はなかった。
いつだって、子供のままの私は、マリオネットだ。
「もう後夜祭は終わったよね? 早く帰らないと危ないよ」
先生はバカみたいに先生を演じて、私のことなんてまるで見てくれない。
「帰る前に、先生に会いにきたんです」
「……へえ」
「だからちゃんと、目を合わさせてください」
書類をクリアファイルにしまうと、先生はかけていた眼鏡を外して、こちらを見た。
「……」
ただ見つめられただけで、心臓が激しく脈打ち、くらりとめまいすら起こしそうになる。先生の目には、それくらいの鋭さと色気があった。
「……さっき、佐藤に告白されました」
先生の顔は微塵も動かずに、笑みを刻み続けている。
「私は、正直……先生への答えも出せてないですけど、断りました」
「それを言いにわざわざここまで来たの?」
ゆるくかぶりを振る。
「……さっき、やっと少しだけ素直になれたから。答えを出そうと、」
「待って」
先生は人差し指を口元に当てて、笑う。
「レイは約束を守るんだよね? 僕は、秋祭りの時に聞くつもりだったんだけどな」
「それは……」
「僕はまだ君に答えを聞いてない。それじゃダメかい?」
意地悪だ、と思う。素直になれそうなのに、先生はゴールをまた遠くに持って行ってしまった。
私の回答用紙を、先生は回収してくれない。
「……わかりました。何もなかったって、ことで」
「うん」
恋を教えてくれた先生は、キスもするし、人目なんてまるで気にしないけれど、その実誠実で優しくて、授業とのギャップを私しか知らないのだと思うと、時々言い難い感情に襲われる。
朝起きたとき、授業中、寝る前__どこにいたって、先生のことばかり頭に浮かんでしまう。勉強なんて捗らない。
きっとそれが、恋だ。
「じゃあ、また月曜日」
去ろうとした私の手を、先生は掴んで、いつかのようにまた、ソファーに押し倒す。
伏せられた睫毛の下、先生の目は、とても綺麗な満月のようだった。
「……せん、せい」
初めにされた時の何倍も速く血液を送り出す心臓は、最近オーバーワーク気味のように思う。
先生といるといつもそうだ。休む時間なんて、瞬きの間ですらない。
「僕さ、今自分でも呆れるくらいレイのことしか考えてない」
先生の指が私の頬をするりと滑り、首筋を伝って鎖骨にたどり着く。そこにはまだ、この間の跡がかすかに残っている。目立たなくなったから、絆創膏は外してしまった。
「知ってます。だって、行動で示されてますし」
「……そういう意味じゃ、ないんだけど」
先生は首筋に顔を埋めて、犬のように匂いを嗅ぐ。その息が、妙にくすぐったくて、苦しかった。
「ねえ、キスしていい?」
強引なようで、先生は私にちゃんと意見を委ねてくる。
私がかすかに首肯すると、先生はそっと唇を重ねてきた。
「……先生は、優しいですね」
唇が離れたとき、私はふとそう呟いた。
「優しい?」
「キスも、行動も、全部優しいですし……安心できるって、いうか」
すると先生は、ふとその身に夜を宿らせて、私を見た。その双眸は妖しく輝き、吐かれた息は私の体を火照らせる。
「レイは、あれが本当のキスだって思ってるの?」
先生のがらっと変わった雰囲気に、なんとなく押される。
「違うんですか?」
「……知らないなら、教えてあげるよ」
私の両手首を優しく押さえつけた先生は、再び私の唇を奪う。
唯一違うのは、その口づけがあまりに荒々しいことだ。
「……っ」
私の酸素を残らず奪い取るかのような、いっそ一緒に死んでくれと言われているような、とても苦しい口づけ。
微かに唇を開くと、先生はその隙間から器用に舌をねじ込み、逃げ惑う私の舌を捕らえて離さない。
二人きりの時の先生は、やっぱり男だ。
やがて先生はひとしきり楽しんだのか、静かに唇を離した。
「……さて、いい子は早く帰ろうか?」
溺れ死ぬくらいのキスのように思えたのに、先生はまるで変わらない。ふわりと頭を撫でて、立ち上がると白衣を脱ぐ。
送っていくよ、なんて言う先生は、さっきのキスのことはなかったとでも言いたげで__だから、少しだけ寂しい。
思えば私は、まだ先生とちゃんと話して二週間かそこらだ。なのに、ずっと想ってくれていた佐藤じゃなくて、この強引な教師を好きになってしまった。
「レイ」
先生の声は、大きくないのによく通る。
ソファから身体を起こして先生を見る。体育館で見せた笑みをもう一度浮かべて、先生は、息をするように、私に毒を飲ませる。
「愛してるよ」
その言葉を信じて__この先に未来があると、本気で願ってもいいのだろうか。
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呼ばれてもないのに来てしまうのは、心のどこかで先生に悪いと思っていたからだろうか。
真っ暗な廊下を歩いて、理科準備室の前に立つ。閉め切った扉の向こうに、微かな光が漏れ出ている。
こんこん、と軽くノックしてみる。
「どうぞ」
先生の声が、返ってきた。私がドアを開けてはいっても、先生は特別驚いた様子はなかった。
いつだって、子供のままの私は、マリオネットだ。
「もう後夜祭は終わったよね? 早く帰らないと危ないよ」
先生はバカみたいに先生を演じて、私のことなんてまるで見てくれない。
「帰る前に、先生に会いにきたんです」
「……へえ」
「だからちゃんと、目を合わさせてください」
書類をクリアファイルにしまうと、先生はかけていた眼鏡を外して、こちらを見た。
「……」
ただ見つめられただけで、心臓が激しく脈打ち、くらりとめまいすら起こしそうになる。先生の目には、それくらいの鋭さと色気があった。
「……さっき、佐藤に告白されました」
先生の顔は微塵も動かずに、笑みを刻み続けている。
「私は、正直……先生への答えも出せてないですけど、断りました」
「それを言いにわざわざここまで来たの?」
ゆるくかぶりを振る。
「……さっき、やっと少しだけ素直になれたから。答えを出そうと、」
「待って」
先生は人差し指を口元に当てて、笑う。
「レイは約束を守るんだよね? 僕は、秋祭りの時に聞くつもりだったんだけどな」
「それは……」
「僕はまだ君に答えを聞いてない。それじゃダメかい?」
意地悪だ、と思う。素直になれそうなのに、先生はゴールをまた遠くに持って行ってしまった。
私の回答用紙を、先生は回収してくれない。
「……わかりました。何もなかったって、ことで」
「うん」
恋を教えてくれた先生は、キスもするし、人目なんてまるで気にしないけれど、その実誠実で優しくて、授業とのギャップを私しか知らないのだと思うと、時々言い難い感情に襲われる。
朝起きたとき、授業中、寝る前__どこにいたって、先生のことばかり頭に浮かんでしまう。勉強なんて捗らない。
きっとそれが、恋だ。
「じゃあ、また月曜日」
去ろうとした私の手を、先生は掴んで、いつかのようにまた、ソファーに押し倒す。
伏せられた睫毛の下、先生の目は、とても綺麗な満月のようだった。
「……せん、せい」
初めにされた時の何倍も速く血液を送り出す心臓は、最近オーバーワーク気味のように思う。
先生といるといつもそうだ。休む時間なんて、瞬きの間ですらない。
「僕さ、今自分でも呆れるくらいレイのことしか考えてない」
先生の指が私の頬をするりと滑り、首筋を伝って鎖骨にたどり着く。そこにはまだ、この間の跡がかすかに残っている。目立たなくなったから、絆創膏は外してしまった。
「知ってます。だって、行動で示されてますし」
「……そういう意味じゃ、ないんだけど」
先生は首筋に顔を埋めて、犬のように匂いを嗅ぐ。その息が、妙にくすぐったくて、苦しかった。
「ねえ、キスしていい?」
強引なようで、先生は私にちゃんと意見を委ねてくる。
私がかすかに首肯すると、先生はそっと唇を重ねてきた。
「……先生は、優しいですね」
唇が離れたとき、私はふとそう呟いた。
「優しい?」
「キスも、行動も、全部優しいですし……安心できるって、いうか」
すると先生は、ふとその身に夜を宿らせて、私を見た。その双眸は妖しく輝き、吐かれた息は私の体を火照らせる。
「レイは、あれが本当のキスだって思ってるの?」
先生のがらっと変わった雰囲気に、なんとなく押される。
「違うんですか?」
「……知らないなら、教えてあげるよ」
私の両手首を優しく押さえつけた先生は、再び私の唇を奪う。
唯一違うのは、その口づけがあまりに荒々しいことだ。
「……っ」
私の酸素を残らず奪い取るかのような、いっそ一緒に死んでくれと言われているような、とても苦しい口づけ。
微かに唇を開くと、先生はその隙間から器用に舌をねじ込み、逃げ惑う私の舌を捕らえて離さない。
二人きりの時の先生は、やっぱり男だ。
やがて先生はひとしきり楽しんだのか、静かに唇を離した。
「……さて、いい子は早く帰ろうか?」
溺れ死ぬくらいのキスのように思えたのに、先生はまるで変わらない。ふわりと頭を撫でて、立ち上がると白衣を脱ぐ。
送っていくよ、なんて言う先生は、さっきのキスのことはなかったとでも言いたげで__だから、少しだけ寂しい。
思えば私は、まだ先生とちゃんと話して二週間かそこらだ。なのに、ずっと想ってくれていた佐藤じゃなくて、この強引な教師を好きになってしまった。
「レイ」
先生の声は、大きくないのによく通る。
ソファから身体を起こして先生を見る。体育館で見せた笑みをもう一度浮かべて、先生は、息をするように、私に毒を飲ませる。
「愛してるよ」
その言葉を信じて__この先に未来があると、本気で願ってもいいのだろうか。
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