放課後の準備室、先生と。
・
この薬品の匂いが、いつからか懐かしいと思えるようになってしまった。どうやら私は、それくらいにはこの準備室に来ているらしい。
先生は、いつものように優しく私を迎えてくれた。
「テストお疲れ様。難しかった?」
「いえ。先生のおかげで、なんとか」
「ふふ、よく言うよ。僕が教えなくても大概わかってたのに」
あの日、温かいまま飲むことは叶わなかったコーヒー。砂糖とミルクが入った、ちゃんと甘いもの。先生はそれを私の前に置いた。
「それで、話すつもりでここに来たっていう認識で、いいの?」
「……はい」
コーヒーをちびちびと飲みながら、私はあの日、何があったかをぽつぽつと話していく。
先生が、自分で用意したコーヒーに口をつけたのは、私の話が全部終わってからだった。
「率直に、いい?」
「はい」
「妬ける」
たった三文字。そこに、先生のすべてがあった。
「妬けるって、何がですか」
「……君をその日独り占めされたこととか、ね。あと、レイとキスしたことも」
キス。忘れていたい記憶が、深層から掘り起こされる。
要するに、佐藤はあの瞬きほどの間で、私にこう言ったのだ。__俺はまだ、お前を諦めてない。
先生の細い指先が、私の唇をゆっくりとなぞる。その顔は、どこか複雑そうだ。
「せん、せい」
「……ごめん、レイ。先に謝っておくね」
直後、くっと頭を引き寄せられ、この前のように深く口づけられた。
突然のそれに驚き、でもそれ以上に嬉しくなった。先生の白衣をぎゅっと掴んで、慣れていない私は、なんとか応えようともがく。先生が送ってくる酸素で、溺れそうになりながら。
先生は、何度も何度も口角を変えて、私の唇を味わっている。長い睫毛の下で伏せられた瞳、それが一瞬、妖しく光って、こちらを射抜く。
だけど、さすがに学校だから、これ以上応じるわけにもいかない。
「先生、そろそろ、はな、して……っ」
「ごめん、まだ足りない」
「何が、です、か」
酸素なら、空気中から貰ってほしい。
「レイが、足りない」
先生は真顔でそう言って、私を押し倒した。
やっぱり、怒らないなんて嘘みたいだ。
「年甲斐もなく、嫉妬なんてするつもり、なかったんだけど」
なのに、と続ける先生は、なぜかとても苦しそうで。
「レイが他の男に盗られるとか考えたら、理性が飛ぶ。このままレイの意見なんて無視して、誰のものかわからせたいくらいには」
苦しそうな顔を見て、先生はやっぱり遠いな、と思った。私がどれだけ先生に惚れているのか、この人は言わないと気づけない。こんなに近くにいるのに。そばにある愛に気づかずに、ずっと一人で飢えている。
他の男に盗られる? 私だって、先生が他の女の人と付き合ったらどうしようと、毎日どれほど悩んでいるか。
「どこにも、行きません。ずっと先生のそばにいますよ」
「嬉しいこと言ってくれるなあ」
「ただの、事実です」
断言した私に、先生はふっと笑って、もう一度コーヒーを飲む。その仕草はとても優雅で、見惚れる。
そうして、目線を本に送ると、そのまま流れるように開いて、読み始めた。自由だな、なんて思いながら、気になる本は何をおいても読みたくなる気持ちが、わからないわけじゃない。
用は済んだので帰ろうと思い、コーヒーの残りを飲み干して、ふと机の上のかすみ草の栞に目がいく。
「……先生、この栞」
「ん? ああ、昔もらったんだ。『おそろい』で」
……お揃い?
私は鞄の中から今読んでいる文庫本を取り出す。この本はスピンが付いてないので、机の底から引っ張り出した古い栞を使っている。
そしてそれは、先生の持っている栞と同じ、かすみ草の栞で。
「レイも“まだ”持ってたんだ。『おそろい』だね」
先生は特段驚いた様子もなくそう言って、また本の世界に引き返してしまう。
でも私はもう知っている。本を読むときのこの横顔を。昔公園で吸っていた煙草の銘柄を。
「先生は…………あの時の、お兄さん、なんですか?」
そう聞くと、先生は本を閉じた。そして返事の代わりにこう言った。
「『もし教師になったら必ず君の高校に行くよ』」
あの頃と同じ真剣な眼差しを思い出す。どうして今まで、気づかなかったのだろう。あんなにヒントをくれていたのに。
『もし教師になったら必ず君の高校に行くよ』
お兄さんが私に言った、最後の言葉だ。
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この薬品の匂いが、いつからか懐かしいと思えるようになってしまった。どうやら私は、それくらいにはこの準備室に来ているらしい。
先生は、いつものように優しく私を迎えてくれた。
「テストお疲れ様。難しかった?」
「いえ。先生のおかげで、なんとか」
「ふふ、よく言うよ。僕が教えなくても大概わかってたのに」
あの日、温かいまま飲むことは叶わなかったコーヒー。砂糖とミルクが入った、ちゃんと甘いもの。先生はそれを私の前に置いた。
「それで、話すつもりでここに来たっていう認識で、いいの?」
「……はい」
コーヒーをちびちびと飲みながら、私はあの日、何があったかをぽつぽつと話していく。
先生が、自分で用意したコーヒーに口をつけたのは、私の話が全部終わってからだった。
「率直に、いい?」
「はい」
「妬ける」
たった三文字。そこに、先生のすべてがあった。
「妬けるって、何がですか」
「……君をその日独り占めされたこととか、ね。あと、レイとキスしたことも」
キス。忘れていたい記憶が、深層から掘り起こされる。
要するに、佐藤はあの瞬きほどの間で、私にこう言ったのだ。__俺はまだ、お前を諦めてない。
先生の細い指先が、私の唇をゆっくりとなぞる。その顔は、どこか複雑そうだ。
「せん、せい」
「……ごめん、レイ。先に謝っておくね」
直後、くっと頭を引き寄せられ、この前のように深く口づけられた。
突然のそれに驚き、でもそれ以上に嬉しくなった。先生の白衣をぎゅっと掴んで、慣れていない私は、なんとか応えようともがく。先生が送ってくる酸素で、溺れそうになりながら。
先生は、何度も何度も口角を変えて、私の唇を味わっている。長い睫毛の下で伏せられた瞳、それが一瞬、妖しく光って、こちらを射抜く。
だけど、さすがに学校だから、これ以上応じるわけにもいかない。
「先生、そろそろ、はな、して……っ」
「ごめん、まだ足りない」
「何が、です、か」
酸素なら、空気中から貰ってほしい。
「レイが、足りない」
先生は真顔でそう言って、私を押し倒した。
やっぱり、怒らないなんて嘘みたいだ。
「年甲斐もなく、嫉妬なんてするつもり、なかったんだけど」
なのに、と続ける先生は、なぜかとても苦しそうで。
「レイが他の男に盗られるとか考えたら、理性が飛ぶ。このままレイの意見なんて無視して、誰のものかわからせたいくらいには」
苦しそうな顔を見て、先生はやっぱり遠いな、と思った。私がどれだけ先生に惚れているのか、この人は言わないと気づけない。こんなに近くにいるのに。そばにある愛に気づかずに、ずっと一人で飢えている。
他の男に盗られる? 私だって、先生が他の女の人と付き合ったらどうしようと、毎日どれほど悩んでいるか。
「どこにも、行きません。ずっと先生のそばにいますよ」
「嬉しいこと言ってくれるなあ」
「ただの、事実です」
断言した私に、先生はふっと笑って、もう一度コーヒーを飲む。その仕草はとても優雅で、見惚れる。
そうして、目線を本に送ると、そのまま流れるように開いて、読み始めた。自由だな、なんて思いながら、気になる本は何をおいても読みたくなる気持ちが、わからないわけじゃない。
用は済んだので帰ろうと思い、コーヒーの残りを飲み干して、ふと机の上のかすみ草の栞に目がいく。
「……先生、この栞」
「ん? ああ、昔もらったんだ。『おそろい』で」
……お揃い?
私は鞄の中から今読んでいる文庫本を取り出す。この本はスピンが付いてないので、机の底から引っ張り出した古い栞を使っている。
そしてそれは、先生の持っている栞と同じ、かすみ草の栞で。
「レイも“まだ”持ってたんだ。『おそろい』だね」
先生は特段驚いた様子もなくそう言って、また本の世界に引き返してしまう。
でも私はもう知っている。本を読むときのこの横顔を。昔公園で吸っていた煙草の銘柄を。
「先生は…………あの時の、お兄さん、なんですか?」
そう聞くと、先生は本を閉じた。そして返事の代わりにこう言った。
「『もし教師になったら必ず君の高校に行くよ』」
あの頃と同じ真剣な眼差しを思い出す。どうして今まで、気づかなかったのだろう。あんなにヒントをくれていたのに。
『もし教師になったら必ず君の高校に行くよ』
お兄さんが私に言った、最後の言葉だ。
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