放課後の準備室、先生と。




当然殆ど眠ることなんてできなかった。集合時間の15分前に駅に着いてしまう程度には私は浮かれていた。

久しぶりにワンピースを着て、キョロキョロと辺りを見回す。お兄さんは流石にまだのようだった。

ふう、と大時計の下で息を吐くと、横から頭を撫でられた。反射的に肩が跳ねるが、この手を私はちゃんと知っている。

「おはよう、早いね」

銀色のピアスが視界の端で光る。明るい茶髪を揺らして屈託なく笑うお兄さんは、行こうか、と言って歩きだした。その背は私よりもずっと高くて、歳の差を思い知らされる。

「東ちゃんの私服初めて見たけど、かわいいね。ほら、図書館はいつも制服で来てたじゃない?」

「そうですね。ありがとうございます……」

「あはは、もしかして照れてる?」

「ち、ちが……わないけど……」

話す機会が増えてくると、お兄さんはよく私をからかって遊んだ。東ちゃん、なんてクラスの男子から言われたことない。お兄さんだけが私をそう呼ぶのだと思えば、特別感があってよかった。

ショッピングモールに着くと、お兄さんはあちこちの服屋に私を連れ回した。

「これとかどう?」

「……なんで私の服ばっか見てるんですか?」

「えー、嫌だった?」

かわいいね、なんて言ってくれたけれど、この服装じゃやはり隣を歩かれるのは嫌ということだろうか。

気を落としてしまった私に気づいたのか、お兄さんは少し慌てて

「ごめんごめん、そろそろ東ちゃんが行きたいとこでもいこうか」

と言って、ごく自然に指を絡めてきた。__恋人繋ぎだ。

「あ、あのっ……手、」

「東ちゃん、ちっちゃくてすぐ迷子なりそうだから」

「……もうそんなに子供じゃないです」

「じゃあ、離す?」

本当は嫌じゃないことなんてわかっているくせに、お兄さんはそうやってすぐ意地悪なことをいう。その横顔は、本を読んでいるときと同じくらい、楽しそうだ。 

「こ、このままでも、いい、ですか……?」

少しだけぎゅっと手を握ると、お兄さんは一瞬目を見開いて、それから私よりずっと強く手を握ってきた。望んでおきながらとても恥ずかしくて、手を繋いでしばらくは手汗が気になって仕方なかった。

ショッピングモールの端の方にある、この辺りで一番大きい本屋にたどり着くと、新書の匂いに気分が上がってしまった。平積みされた人気の本から、雑誌コーナーや参考書などお兄さんとお昼ごろまでずっと本を眺めていた。

ぐぅ、と決して小さくない音で私のお腹が鳴ったあたりで、お兄さんが「何か食べようか」と言った。

「なんか食べたいのある?」

「お兄さんの好きなものでいいですよ」

お兄さんを見上げると、不意にじっと何か考えるように見つめられた。そして繋いでいない方の手で私の頬に触れる。

「どうかしましたか?」

「………………なんでもとか言われたら、期待しちゃうけど」

お兄さんの声は喧騒にかき消されてよく聞こえなかった。

「お兄さん?」

「ん、あぁ、ごめんごめん、ゴミついてたのが気になって」

先程の真剣な顔はもう見えず、お兄さんは無邪気に笑って、私の手を引いてまた歩き出した。

フードコートはお昼時で結構混んでいたから、その近くにあったレストラン街の中のイタリアンレストランに入った。きちんとお財布は持ってきていたけれど、お兄さんは結局私にただの一銭も払わせなかった。

「ごちそうさまです」

いいよ、と当たり前のように言うお兄さんと午後もショッピングモールを回った。途中、買ってもらったクレープを食べていると横からぱくりと一口取られ、流石にドキドキしておかしくなりそうだったけれど。

夕方ごろになってすっかり遊び疲れた私たちは、ショッピングモールの帰り道の途中にある公園のベンチに腰掛けた。

「楽しかった?」

頷くと、お兄さんは私と繋いでいた手で私の頭を撫でた。

そして胸ポケットからタバコを取り出すと、「いい?」と聞いた。

「タバコ、吸うんですね」

「まあたまにね。嫌ならやめとくよ」

「気にしないので、どうぞ」

お兄さんは少しだけ申し訳なさそうにタバコを咥え、オイルライターで火をつける。タバコの火と沈み始めてきた夕日が燃えるように赤くて、眩しい。

「今日はありがとうございました」

「ううん、誘ったのは僕だし。それに東ちゃんといれる最後の日だったからせっかくだし遊んでおきたかっただけだよ」

「……最後?」

きょとんとした私に、お兄さんは今まで私に見せたことのない苦しそうな顔を見せた。

「もうすぐ就活で地元に帰るんだよ。だからお別れになるね」

お別れ。その言葉が頭をぐるぐると巡り、ようやく理解した時。その時の私の絶望感といったら計り知れなかった。

明日から図書館に行ってもお兄さんがいないと思ったら、私は途端に涙が出てしまった。普段あまり泣くことはなかったけれど、この時ばかりは人目も憚らず大号泣してしまった。

「あぁもう、泣かない泣かない」

苦笑しながら差し出されたハンカチを受け取っても、涙は収まらなかった。

「ほんとに、もう会えないんですかっ……?」

「僕、教師になろうかと思って。だからもしかしたら会えるかもだけど、東ちゃんが早く大きくならないと無理だね」

帰ろうか。その手を嫌だといって拒みたいけれど、拒めなかった。お兄さんの未来を阻むことは私にはできない。

駅前まで戻ってくると、お兄さんは未だに泣いている私を抱き寄せて、優しく頭を撫でた。

「……もし次東ちゃんと会うなら、見た目まるっきり変わってるかも」

「チャラくないってことですか?」

「えぇ、今チャラい? そんなつもりなかったから結構ショックだな」
 
お兄さんの笑い声につられて、私もつい笑ってしまった。それを見て安心したのか、お兄さんは私からそっと離れた。

「もし教師になったら必ず君の高校に行くよ。……またね、レイちゃん」

初めて名前で呼ぶのはずるいだろう、と思った。見送りきってから、お兄さんの名前をついぞ聞いてないことに気づいて、私はまた少し泣いた。





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