バレンタイン・フェルマータ
「そうではなく、何かリクエストにお応えしようかと」

うわぁ。
弾いてくれるなんて初めて!

「いいんですか?」

思わず仕事モードが緩み、普通にミーハー心が顔を出してしまう。

「どうぞ、何なりと」

彼は微笑みながらピアノ椅子の位置を調整した。

ああ。まずい。そんな仕草でさえかっこよく見える。

「何でもいいですか?」

「何でもいいですよ」

さらっと答えてくれるところに、プロのプライドが滲み出ていて、これまたかっこいい。

「この間のコンサートで弾いてらした、バーンスタインの『不安の時代』の『マスク』をお願いできますか?」

「聴きにいらしてたんですか?」

「都内で楠木さんが出るコンサートにはほぼ行ってます」

「……それは、すごく嬉しいですけど、どうしてですか?」

担当調律師として。
勉強として。
ファンだから。

いろんな理由が浮かぶけれど、言えなかった。

だって、一番の理由は、あなたが好きだから。

言い淀む私を見て、彼は何故か微笑んだ。

「とりあえず先にリクエストにお応えしますね」

彼は鍵盤の上に指をかざして、リズムをとりつつ息を吸うと、軽やかに指を踊らせ始めた。
一瞬で仮面劇の世界へと変わる。

クラシックなのに、それはまるでジャズ。下手なピアニストじゃ弾けない難所。
彼は複雑なリズムを完璧に把握して身体全体を使って奏でていく。
ホールで聴くまろやかな音色とは違う、間近から突き刺さり、体と心の芯まで揺さぶられるような音の波。

それらの迫力といったら!

やっぱりプロピアニストってすごい。

……そして、やっぱり、この人が大好き。

幸せで、幸せで、この時が少しでも長く続けばいいのに、と思う。

でも音楽は時間とともに流れていかなければならないもので、3分程の短い楽章はあっという間に終わりの時を迎えた。


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