バレンタイン・フェルマータ
私が拍手を送ると、彼は立ち上がり、胸に手を当て、お辞儀をした。
そして、その頭が上がると、その瞳には艶っぽい光が宿っていた。

「今日はバレンタインデーだから、逆バレンタインってことで本気で弾きました」

……え?

「誠実な仕事ぶりとか、真剣な顔とか、仕上げた後に“よし!”って満足げに微笑む顔とか、仕事が終わってから交わす何気ない会話とか、いつしかただの調律師さんじゃなくて、会いたい人……好きな人になってました。

でもただのお客に告白されても迷惑かなって悩んでたところ、弦が切れて。
まさか今日弦が切れるとは思っていなかったんですけど、これはもうチャンスというか奇跡というか背中を押されたというか。

さっき、コンサートに来てくれた理由、即答してくれなかったことに希望を見出したんですけど、合ってます?」

あまりに幸せすぎて現実感がなくてふわふわするけど、急いでコクコク頷き、返す言葉を組み立てる。

「行けるコンサートに全部行ってるのは、好きだから、です。

ただ私はコンサートチューナーでもないただの調律師ですし、ましてお客様に告白するなんて、って迷ってました。今日もバレンタインデーに会えることになったっていうのに、結局チョコレート買えなくて……」

「大丈夫。勇気を出すのには慣れてる僕から手を出します」

彼は私に近づいてきて、
そっと抱きしめてくれた。

ずっと夢みていた瞬間がやってきて。

ああ、また。
幸せで、幸せで、この時が少しでも長く続けばいいのに、と思う。

「調律に来てくれる度に、この時がもう少し長く続いてほしい、と思ってました。なのに、いつもさっさと終わらせて帰ってしまうんですもん」

少し拗ねたような口調は初めて聞く。
どうしよう。
かわいい。

「……それは、ずっと担当させていただくために、有能な調律師であろうと努力していたので……」

「うん。それはよく伝わってきてました。

今日は僕が引き止めます。

–––––––長居していってくれますね?」










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