京都祇園 神さま双子のおばんざい処
拓哉さんが味噌汁を飲んでから尋ねた。
「ところで、財布が見つかったという連絡はあったのか」
「いいえ」
「昨日落として昨日すぐに見つからないということは、ちょっと長引くかもね。咲衣さん、これからどうするの?」
「実家から口座を使って交通費を送ってもらうこともできなくはないのですけど、京都に住んでいる昔からの友達がいるんです。その子にとりあえずお金を借りて東京に帰ろうかと思ってはいるんですが……」
「ゆっくりしていってもいいんだよ。昨日も言った通り、ここでしばらく働いてもいいし。多分、拓哉はそう考えている」
「そうなのですか」
拓哉さんがむっつりと頷いた。
「ああ見えて拓哉は人間にやさしいからね。僕なんかは、人間はやさしくするとすぐつけあがるから、ときどき天罰を与えるくらいがちょうどいいと思ってるんだけど」
「そ、そうですか」
にこにこ笑顔なのに、弥彦さんの方が過激だ。
「だってさ、苦しいときの神頼みばかりで、見かねて助けてやったら、そのうち神さまは人間を幸せにするためにいるんだって、自分のために勝手な神さまをでっち上げるじゃん」
「神さまって、人間を幸せにしてくれるんじゃないんですか」
「僕たちのいう幸せは心の幸せ。心の幸せにつながる前提で五穀豊穣も商売繁盛ももたらすよ。でも、自分勝手な欲望を増長させる方向では協力なんてしないし、神さまを自分の召使いみたいに考える人間には協力してやりたくないね」
「弥彦、その辺にしておけ」
「へーへー」
「話を戻す。俺はおまえがもう少しここにいるべきだと考えている。おまえも本当はそうしたいのではないか」
拓哉さんにまっすぐ見つめられてどきりとした。イケメンに凝視された緊張感だけではない。心の中の願望を見抜かれた気がしたからだ。
でも、それは拓哉さんたちにとって、とても迷惑な私の願望で……。
「いえ、そんな。昨夜一晩泊めていただいただけありがたいです」
「神さまの前で嘘をついても無駄だぞ」
拓哉さんがじっとこっちを見ている。弥彦さんがにやにやしている。私は目線をあちこちに動かしながら、どうしようか悩んでいた。
「じゃあ、僕が当てちゃおっか」
「え?」
「出汁」
「………………っ!」
「それだけじゃなくて、拓哉が作る味を全部教えてほしいって思ってるでしょ」
ずばり言い当てられて、顔が一気に熱くなった。
昨日、味付けなどのテクニックよりも大切な、おじいちゃんの笑顔という自分の原点を思い出させてもらったことは分かっている。
だけど、いや、だからこそ、私にそのことを思い出させてくれた素敵な味のすべてを学び尽くしたいと思ったのだ。
それがきっと、私が本当に作りたい味だと思うから。
こう言っては失礼だけど、私が昨日実技試験をした店の味よりも、私はこの味を身につけたい。
「そうなのだな?」と、拓哉さんが言葉少なに確認した。
私は大きく深呼吸して答えた。
「はい。――私に、料理を教えてください!」
拓哉さんは髪を掻き上げてあっさり言った。
「構わない。気がすむまでここで修行するといい。修行中は『咲衣』と呼ばせてもらう」
あまりにも簡単に許可が下りてしまった。おかげで、肩すかしを食らったような感じがする。
「ほ、ほんとにいいんですか?」
「ああ。何だ、不服なのか」
「いえ、そんなことは――」
食べ終わった食器を弥彦さんがまとめながら笑っている。
「咲衣さん、大変だよ? 何しろキャリア差は数千年あるんだから」
「数千年――」
「神さまってそういうものだからね」
この道何十年の板前にもそうそう追いつけるものではないのに、数千年とか言われると、ちょっと気持ちが萎えるのを超えて思考停止になりそうになるんですけど。
自分の進路を誤ったかなと一瞬考えていると、おまわりさんが店にやってきた。昨日、拓哉さんから財布を落とした女性がいると電話をもらったので、今日、事情を聞きに来たと言っていた。あまり経験がないのだけど、普通は落とし物をした場合、落とした本人が交番に行かなければいけないのではないかしら。
そんな疑問をそれとなく聞いてみると「拓哉さんと弥彦さんにはお世話になっていますから」と、含みのある笑みとともに敬礼された。ここにも神さまパワーがからんでいるのかな。
財布が見つかったら連絡するが、出てこないこともあるかもしれないのでと最悪の想定もきちんと説明しておまわりさんは出て行った。
おまわりさんがいなくなってすぐに拓哉さんが私に命じた。
「咲衣、早速だが、出汁を取ってみろ」
「はい」
一度二階に上がっていつも着ている調理白衣に着替える。まさかもう一度、京都でこの七分袖の仕事着に袖を通すことができるなんて。
髪をピンで留めてまとめると、帽子を被る。大きく深呼吸。よし。
「よろしくお願いします」
「うちで使っている出汁の材料は一通りここに出した。どれを使ってもいい。もし足りないものがあれば出すから言ってくれ」
昆布、煮干し、鰹節、削り節、さば節、干し椎茸など、いろいろな材料が並べられている。どれもこれも一級品だ。しかし、一級品ではあるが超一級品ではない。ひょっとしたら昨日の店の方が高級な材料を使っているかもしれない。あちらは高級京懐石料理店、こちらはおばんざい処。その辺りに差が出るのは当然だろう。
それなのに、どうしてこの店の方が心が揺さぶられるような味ができるのだろう。
「お水は――」
「浄水器のついている蛇口を使ってくれ」
「水道水なんですね」
「ああ」
水も取り立てて特別なものは使っていない。浄水器もごく普通のものに見える。
だったら、私もいちばんシンプルにやってみよう。
「ところで、財布が見つかったという連絡はあったのか」
「いいえ」
「昨日落として昨日すぐに見つからないということは、ちょっと長引くかもね。咲衣さん、これからどうするの?」
「実家から口座を使って交通費を送ってもらうこともできなくはないのですけど、京都に住んでいる昔からの友達がいるんです。その子にとりあえずお金を借りて東京に帰ろうかと思ってはいるんですが……」
「ゆっくりしていってもいいんだよ。昨日も言った通り、ここでしばらく働いてもいいし。多分、拓哉はそう考えている」
「そうなのですか」
拓哉さんがむっつりと頷いた。
「ああ見えて拓哉は人間にやさしいからね。僕なんかは、人間はやさしくするとすぐつけあがるから、ときどき天罰を与えるくらいがちょうどいいと思ってるんだけど」
「そ、そうですか」
にこにこ笑顔なのに、弥彦さんの方が過激だ。
「だってさ、苦しいときの神頼みばかりで、見かねて助けてやったら、そのうち神さまは人間を幸せにするためにいるんだって、自分のために勝手な神さまをでっち上げるじゃん」
「神さまって、人間を幸せにしてくれるんじゃないんですか」
「僕たちのいう幸せは心の幸せ。心の幸せにつながる前提で五穀豊穣も商売繁盛ももたらすよ。でも、自分勝手な欲望を増長させる方向では協力なんてしないし、神さまを自分の召使いみたいに考える人間には協力してやりたくないね」
「弥彦、その辺にしておけ」
「へーへー」
「話を戻す。俺はおまえがもう少しここにいるべきだと考えている。おまえも本当はそうしたいのではないか」
拓哉さんにまっすぐ見つめられてどきりとした。イケメンに凝視された緊張感だけではない。心の中の願望を見抜かれた気がしたからだ。
でも、それは拓哉さんたちにとって、とても迷惑な私の願望で……。
「いえ、そんな。昨夜一晩泊めていただいただけありがたいです」
「神さまの前で嘘をついても無駄だぞ」
拓哉さんがじっとこっちを見ている。弥彦さんがにやにやしている。私は目線をあちこちに動かしながら、どうしようか悩んでいた。
「じゃあ、僕が当てちゃおっか」
「え?」
「出汁」
「………………っ!」
「それだけじゃなくて、拓哉が作る味を全部教えてほしいって思ってるでしょ」
ずばり言い当てられて、顔が一気に熱くなった。
昨日、味付けなどのテクニックよりも大切な、おじいちゃんの笑顔という自分の原点を思い出させてもらったことは分かっている。
だけど、いや、だからこそ、私にそのことを思い出させてくれた素敵な味のすべてを学び尽くしたいと思ったのだ。
それがきっと、私が本当に作りたい味だと思うから。
こう言っては失礼だけど、私が昨日実技試験をした店の味よりも、私はこの味を身につけたい。
「そうなのだな?」と、拓哉さんが言葉少なに確認した。
私は大きく深呼吸して答えた。
「はい。――私に、料理を教えてください!」
拓哉さんは髪を掻き上げてあっさり言った。
「構わない。気がすむまでここで修行するといい。修行中は『咲衣』と呼ばせてもらう」
あまりにも簡単に許可が下りてしまった。おかげで、肩すかしを食らったような感じがする。
「ほ、ほんとにいいんですか?」
「ああ。何だ、不服なのか」
「いえ、そんなことは――」
食べ終わった食器を弥彦さんがまとめながら笑っている。
「咲衣さん、大変だよ? 何しろキャリア差は数千年あるんだから」
「数千年――」
「神さまってそういうものだからね」
この道何十年の板前にもそうそう追いつけるものではないのに、数千年とか言われると、ちょっと気持ちが萎えるのを超えて思考停止になりそうになるんですけど。
自分の進路を誤ったかなと一瞬考えていると、おまわりさんが店にやってきた。昨日、拓哉さんから財布を落とした女性がいると電話をもらったので、今日、事情を聞きに来たと言っていた。あまり経験がないのだけど、普通は落とし物をした場合、落とした本人が交番に行かなければいけないのではないかしら。
そんな疑問をそれとなく聞いてみると「拓哉さんと弥彦さんにはお世話になっていますから」と、含みのある笑みとともに敬礼された。ここにも神さまパワーがからんでいるのかな。
財布が見つかったら連絡するが、出てこないこともあるかもしれないのでと最悪の想定もきちんと説明しておまわりさんは出て行った。
おまわりさんがいなくなってすぐに拓哉さんが私に命じた。
「咲衣、早速だが、出汁を取ってみろ」
「はい」
一度二階に上がっていつも着ている調理白衣に着替える。まさかもう一度、京都でこの七分袖の仕事着に袖を通すことができるなんて。
髪をピンで留めてまとめると、帽子を被る。大きく深呼吸。よし。
「よろしくお願いします」
「うちで使っている出汁の材料は一通りここに出した。どれを使ってもいい。もし足りないものがあれば出すから言ってくれ」
昆布、煮干し、鰹節、削り節、さば節、干し椎茸など、いろいろな材料が並べられている。どれもこれも一級品だ。しかし、一級品ではあるが超一級品ではない。ひょっとしたら昨日の店の方が高級な材料を使っているかもしれない。あちらは高級京懐石料理店、こちらはおばんざい処。その辺りに差が出るのは当然だろう。
それなのに、どうしてこの店の方が心が揺さぶられるような味ができるのだろう。
「お水は――」
「浄水器のついている蛇口を使ってくれ」
「水道水なんですね」
「ああ」
水も取り立てて特別なものは使っていない。浄水器もごく普通のものに見える。
だったら、私もいちばんシンプルにやってみよう。