京都祇園 神さま双子のおばんざい処
どこかで落とした? どこで落とした?
八坂神社に参拝したときにお賽銭を出そうと財布を出した。そこまではあったはず。ひょっとしてそのときに落としたのだろうか。
神社から出て道を確かめるために何度かバッグからスマートフォンを出したときにはあったような気がするけど、自信がない。
スマートフォンの出し入れのときにいつの間にか落としていたのだろうか。
それにしても、いくらさっきの面接で落ち込んでいるとはいえ、財布落として気づかないか、私?
「ここに来るまでのどこかで落としたのは間違いないから――」
財布を落としたということは、お金を落としただけではない。運転免許証もキャッシュカードもクレジットカードも全部落としてしまったということだ。
とにかく急いで捜さなきゃ。
ところが、祇園界隈を舞妓さんを探してうろうろしていたせいで、自分が歩いてきた道がよく分からない。
そんなことを言っているあいだに、悪い人に拾われたりしたら大変だ。捜そう。
碁盤の目になっている通りのせいで、かえってどこも同じような道に見えてしまう。
慌てれば慌てるほど、本当に同じところばかり歩いてしまい、ますます焦った。
西日になってきた。やはり八坂神社まで戻らないといけないかな。泣きそうになってきた。
そのときだった。
引き戸が開く軽やかな音がした。
財布を捜して足元ばかり見ていた私は、その音に思わず顔を上げる。
ちょうどすぐ目の前、町家の引き戸が開いたところだった。
出てきたのは、とんでもないイケメンだった。
意志の強さを感じさせる凜々しい眉、長いまつげに覆われた黒目がちの瞳がまず目を引きつけた。鼻筋はまっすぐで、口元の引き締まった感じが努力家の印象を与える。それら顔のパーツが、きめ細かく色白の肌に寸分の狂いなく配置されている様は、思わずため息が出てしまう。
転職に失敗した上に、財布まで落として途方に暮れていた私が、一瞬、それらのすべてを忘れてまじまじと見つめてしまったくらいの美形だった。
しかし、男性の着ているものを見て、思わず心が強張って立ちすくんでしまった。
男性が身につけていたのは、作務衣と前掛け。一目で和食料理人だと分かる。驚いてのれんの周りを見れば、『なるかみや』という屋号が柱に小さく見えた。
いま、そんな格好を見てしまうと、さっきの実技試験を思い出してしまう。胸が痛い。自分で思っているよりも、私の心はつらかったみたいだ。食い気でごまかそうとした心の柔らかいところが露呈して、思わず動けなくなってしまった。
その間に、男性はかがみ込んで慣れた手つきで入り口の左右に盛り塩を調えていた。
男性が立ち上がった。
かすかに男性の身体から出汁の香りがした。
深くてやさしい香り。この店は初めてなのに、深く心の郷愁を揺さぶってくるような不思議な感じがする香りだった。
どんな材料をどんな按分で作っている出汁だろう。思わず鼻をひくつかせた。普段からの癖だ。
その拍子に、男性と私の目が合った。
不思議な目だった。
どう見ても大人の男の人なのに、赤ちゃんみたいなきれいな目をしている。こうして正面から見るとどことなく物憂げなクール系のイケメンだ。その顔立ちとのアンバランスさに、心が引きつけられた。
「……あ、あの」
私が何かを言おうとしたとき、男性の方が先に言葉をかけてきた。
「今日のお客はおまえだ。――入れ」
「え?」
何かの聞き間違いかと思って聞き返したが、男性は同じ言葉を繰り返した。今日のお客はおまえだ。入れ。ずいぶんざっくりした言い方だった。
「ここは『なるかみや』という。おばんざいの店だ。食べていけ」
「い、いえ、その」
おばんざい屋さんに行って、京都のおばんざいを食べていこうとは思っていた。
だから、何事もなければ、このお店でも問題はなかっただろう。
しかし、こんなイケメンにいきなり客引きされたら、ぼったくりかと疑って二の足を踏んでしまう。これほどのイケメンに知り合いはいないし、初見のイケメンから親切にされるほど、私が美人な訳でもない。何で私はこんなにイケメンイケメンと連呼しているんだろう……。
何よりも、私は財布を持っていない。いまはおばんざいよりも財布である。イケメンよりも私の黄色い長財布に会いたい。
私が立ち去るタイミングを窺っていると、店の中からもうひとり出てきた。
「どうしたんだい、拓(たく)哉(や)。何かあった?」
出てきたのはまたしてもイケメンだった。店先にかける紺一色ののれんを持っている。拓哉と呼ばれた先ほどの男性は黒髪だったが、出てきた男性は茶髪で健康的な肌色をしていた。着ているものはジーンズにトレーナーで、作務衣ではない。拓哉という人は物憂げな表情のクール系だったが、こちらの男性はにこやかな表情を浮かべていて、まるで子供がそのまま大きくなったような純真さを感じさせた。
そこで不思議なことに気づいた。
拓哉という男性と茶髪のイケメンさんの目がそっくりだったのだ。
八坂神社に参拝したときにお賽銭を出そうと財布を出した。そこまではあったはず。ひょっとしてそのときに落としたのだろうか。
神社から出て道を確かめるために何度かバッグからスマートフォンを出したときにはあったような気がするけど、自信がない。
スマートフォンの出し入れのときにいつの間にか落としていたのだろうか。
それにしても、いくらさっきの面接で落ち込んでいるとはいえ、財布落として気づかないか、私?
「ここに来るまでのどこかで落としたのは間違いないから――」
財布を落としたということは、お金を落としただけではない。運転免許証もキャッシュカードもクレジットカードも全部落としてしまったということだ。
とにかく急いで捜さなきゃ。
ところが、祇園界隈を舞妓さんを探してうろうろしていたせいで、自分が歩いてきた道がよく分からない。
そんなことを言っているあいだに、悪い人に拾われたりしたら大変だ。捜そう。
碁盤の目になっている通りのせいで、かえってどこも同じような道に見えてしまう。
慌てれば慌てるほど、本当に同じところばかり歩いてしまい、ますます焦った。
西日になってきた。やはり八坂神社まで戻らないといけないかな。泣きそうになってきた。
そのときだった。
引き戸が開く軽やかな音がした。
財布を捜して足元ばかり見ていた私は、その音に思わず顔を上げる。
ちょうどすぐ目の前、町家の引き戸が開いたところだった。
出てきたのは、とんでもないイケメンだった。
意志の強さを感じさせる凜々しい眉、長いまつげに覆われた黒目がちの瞳がまず目を引きつけた。鼻筋はまっすぐで、口元の引き締まった感じが努力家の印象を与える。それら顔のパーツが、きめ細かく色白の肌に寸分の狂いなく配置されている様は、思わずため息が出てしまう。
転職に失敗した上に、財布まで落として途方に暮れていた私が、一瞬、それらのすべてを忘れてまじまじと見つめてしまったくらいの美形だった。
しかし、男性の着ているものを見て、思わず心が強張って立ちすくんでしまった。
男性が身につけていたのは、作務衣と前掛け。一目で和食料理人だと分かる。驚いてのれんの周りを見れば、『なるかみや』という屋号が柱に小さく見えた。
いま、そんな格好を見てしまうと、さっきの実技試験を思い出してしまう。胸が痛い。自分で思っているよりも、私の心はつらかったみたいだ。食い気でごまかそうとした心の柔らかいところが露呈して、思わず動けなくなってしまった。
その間に、男性はかがみ込んで慣れた手つきで入り口の左右に盛り塩を調えていた。
男性が立ち上がった。
かすかに男性の身体から出汁の香りがした。
深くてやさしい香り。この店は初めてなのに、深く心の郷愁を揺さぶってくるような不思議な感じがする香りだった。
どんな材料をどんな按分で作っている出汁だろう。思わず鼻をひくつかせた。普段からの癖だ。
その拍子に、男性と私の目が合った。
不思議な目だった。
どう見ても大人の男の人なのに、赤ちゃんみたいなきれいな目をしている。こうして正面から見るとどことなく物憂げなクール系のイケメンだ。その顔立ちとのアンバランスさに、心が引きつけられた。
「……あ、あの」
私が何かを言おうとしたとき、男性の方が先に言葉をかけてきた。
「今日のお客はおまえだ。――入れ」
「え?」
何かの聞き間違いかと思って聞き返したが、男性は同じ言葉を繰り返した。今日のお客はおまえだ。入れ。ずいぶんざっくりした言い方だった。
「ここは『なるかみや』という。おばんざいの店だ。食べていけ」
「い、いえ、その」
おばんざい屋さんに行って、京都のおばんざいを食べていこうとは思っていた。
だから、何事もなければ、このお店でも問題はなかっただろう。
しかし、こんなイケメンにいきなり客引きされたら、ぼったくりかと疑って二の足を踏んでしまう。これほどのイケメンに知り合いはいないし、初見のイケメンから親切にされるほど、私が美人な訳でもない。何で私はこんなにイケメンイケメンと連呼しているんだろう……。
何よりも、私は財布を持っていない。いまはおばんざいよりも財布である。イケメンよりも私の黄色い長財布に会いたい。
私が立ち去るタイミングを窺っていると、店の中からもうひとり出てきた。
「どうしたんだい、拓(たく)哉(や)。何かあった?」
出てきたのはまたしてもイケメンだった。店先にかける紺一色ののれんを持っている。拓哉と呼ばれた先ほどの男性は黒髪だったが、出てきた男性は茶髪で健康的な肌色をしていた。着ているものはジーンズにトレーナーで、作務衣ではない。拓哉という人は物憂げな表情のクール系だったが、こちらの男性はにこやかな表情を浮かべていて、まるで子供がそのまま大きくなったような純真さを感じさせた。
そこで不思議なことに気づいた。
拓哉という男性と茶髪のイケメンさんの目がそっくりだったのだ。