京都祇園 神さま双子のおばんざい処
第一話 夢に舞う桜とエンドウ豆ごはん
 日本国内で財布を丸ごとなくすというのは意外に面倒なものだった。

 むしろ海外なら、日本大使館に駆け込んで当座の旅行資金を借りることなどもできるかもしれない。しかし、国内旅行の最中ではそれもできない。ホテルの予約もしていなかったから、いきなり野宿の可能性もあったのだ。

 だから、おばんざい処『なるかみや』で寝泊まりさせてもらえるのはとてもラッキーなことだった。しかも、この店の料理人と給仕は双子の神さま。八坂神社で祀られている由緒正しい本物の神さまの一部分(分け御霊とか言っていた)らしい。

 ここの建物は厨子(つし)二階(にかい)という造りらしく、一階と比べると二階の天井が低い。虫籠窓(むしこまど)があるのも特徴だった。

 二階へは、段下が収納を兼ねている箱階段を使って上がる。

 店舗の二階が住居スペースになっていて四部屋あった。私はそのうちの一部屋に泊まることにした。布団や文机などはお借りしたけど、その他の物は部屋から移動させたせいで、残る一部屋は物置のようになってしまった。

 選んだのは、ふたりの神さまの部屋と離れている部屋。昨日弥彦さんは、自分たちは神さまだから人間の女性には興味がないみたいなこと言ってたけど、それはそちらの問題であって、私の気持ちとしては落ち着かないことこの上ない。

 それにもかかわらず、おばんざいをいただいた私はいろいろな疲れと「神さまって本当にいるんだ」という衝撃に、シャワーを浴びると布団に倒れ込んでしまった。キャリーバッグを転がしていたおかげで着替えがあったのがせめてものことだった。

 そのまま眠ろうとした私はとんでもないことに気づいて飛び起きた。

「やばっ。落とした財布に入っていたカード類、止めてないじゃん」

 すでに夜だったがそんなことを言っている場合ではない。大急ぎで銀行やカード会社に電話を入れた。幸い、誰かに使われた形跡のようなものはないらしい。

 ほっとひと息ついて横になったあとは、記憶がなかった。

 気がつけば夜が明けていた。それどころかもう日が高い。

 寝癖すっぴん姿を見られまいとこそこそと部屋を出て、洗面所に急ぐ。どうか、こんな姿を見られませんように。

 大慌てで顔を洗ってお化粧をすませる。料理人の端くれとして匂いが移るようなお化粧はしない。ほとんどたしなみ程度だ。そもそもお化粧品にも詳しくないし。髪型は毎日微妙に違う。すっぴん自慢できるほどではもちろんないけど、入念に書かなくても眉毛がきちんとある顔に産んでくれたお母さんにちょっと感謝している。

 何とか人前に立てる状態になってほっとしていると、どこからか出汁の香りがした。

 昨日と同じ、まっすぐでそれでいて深みがある、きれいな出汁の香り。

 一体どうやったら、香りだけでもこんなに素敵な出汁が取れるのだろう。

「おっそよー、咲衣さん」

 鏡の向こうで弥彦さんが手を振っている。

 急に背後から声をかけられて心臓が止まりそうになった。

「お、おはようございます――っ」

「女の子の身支度は大変だねぇ」

 思わず頬がひくついた。

「み、見てたんですか」

「見てない見てない。そのくらいのデリカシーはあるよ。ただ、二階に上がったらちょうど咲衣さんが顔を洗いに行ったみたいだったから、声をかけるのをずっと待ってたの。あんまり時間かからなかったから良かったよ」

「さ、さようでございましたか」

 何だろう、この妙な敗北感みたいなものは。

 やっぱり男ふたりの家に女子ひとりだもんな……。

 そういえば京都ってお土産物屋で木刀とか売ってたよね。一振り買っておこうかな。

 私の気持ちにまるで気づいていない顔の神さまが明るく話しかけてくる。

「ちょうど拓哉がお昼ごはんを作ったから様子を見に来たんだけど、食べるよね」
「え? もうそんな時間ですか?」

 時間を確認することも忘れていた。恥ずかしい。

 下に降りると、きちんと三人分のごはんが用意されていた。

 調理用具を洗い終えた拓哉さんと目が合った。拓哉さんのクールな顔が怖かった。先輩よりも思い切り寝坊したとか、前の勤務先だったら大目玉だ。反射的に謝ろうとしたら、先に拓哉さんが声をかけてきた。

「よく眠れたか」

 無愛想な顔ながら、発された言葉はやさしかった。

「は、はい。あの」

「腹、減ったろ。ちゃんと食べろよ」

「はい……」

 謝る隙をくれない。

 弥彦さんはごはんの前に座り、明るい声でいただきますをして食べ始めた。拓哉さんも静かにいただきますと言って食べ始める。

「どうしたの? お味噌汁冷めちゃうよ」

「あ、あの、昨夜は泊めていただき、ありがとうございました。それと、すっかり寝坊してしまって申し訳ございませんでした」

「昨夜のことは構わない。それと、別にここで働いているわけではないのだから、朝寝を謝る必要はない。――鯵の開き、食えるか」

「はい、好きです。けど何かこう――」

「悪いと思うんなら、ごはん食べてよ。冷めておいしくなくなっちゃったら拓哉が嘆くよ」

 弥彦さんの言葉にはっとした。食べ物をおいしくなくしてしまうのは罪なことだ。私も座って両手を合わせ、いただきますを言ってからごはんをいただく。

 炊きたてのごはんが今日もやさしかった。

 鯵の開きは脂がのっていて、ごはんと一緒に食べるととろけるようだ。

 添えられたきゅうりの漬物は古漬けになりかかっていたけど、そのかすかな酸味にごはんが進む。

 味噌汁は昨夜の残りのようだったが、一晩寝かせた分、味がなじんでいた。

 おかずもお味噌汁も、全部がお米のおいしさを引き立たせ、またお米の甘さが他のおかずをやさしく包んでいる。素敵だった。

 もともと、和食のおかずは白いごはんをたくさん食べるために考えられてきた。昔はおかずばかり食べると『おかず食い』と言ってたしなめられた家も多かったという。

「とってもおいしいです」

 拓哉さんは小さく頷いただけ。弥彦さんは「それはよかった」とごはんを頬ばって笑っている。本当にこのふたり、対照的だな。
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