雨が降り止むまででいいから
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「最悪だわ。」
ぼんやりとした思考を妨げたのは、部屋に入ってきた不機嫌なハクの声。
顔を上げれば、下着に俺のシャツを引っ掛けた姿のハクが苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをする。
手を持っていたペットボトルの水を豪快に喉に流し込んで、濡れた口を手の甲で拭った少女は言った。
「雨が降ってる。結構強いから、これじゃあ帰れないわ。」
「それはお気の毒だな。」
「本当にね。」
はぁあ、と本気で嫌そうな溜息をつく。
冬も終わりに近づいたとはいえ、夜は未だに冷え込む時期だ。
ましてや雨が降っているなら気温は更に下がって、外で夜明けを待つのは危険だろう。
いくらハクでも、冷たい夜に纏わり付かれる気はないらしい。
ちらっと時計を見やれば、針の指す時刻は丑三つ刻を目前に控えた頃。明け方までもう一眠りくらいはできるだろう。
ハクがゆらり、と覚束ない足取りで部屋を横切っていく。少し動きがぎこちないのは、酷使させた体がまだ痛むからだろうか。
つい数時間前の痕跡を辿るように、細い指先が入り口近くに脱ぎ散らかした服をつまみ上げた。
白と黒のTシャツ、深い色のジーンズとサイズが大きめな男物のモッズコート。
シンプルでいつも変わらない服が、彼女の腕に抱えられていく。
考えるよりも、言葉の方が先だった。
「・・・雨が止むまで、ここに居ればいいだろ。」
言ってから気づく。
これは、俺の願望だ。
少女の仄かな温もりと、甘やかな香りをまだ感じていたい。
雨が降り止むまでの、僅かな時間だけでもいいから。
どうか、俺の側に。
叫ぶような嘆願を胸の奥に隠して、なんでもない声で俺は言う。
ハクは何か考えているのか俯いて黙り、表情が見えない。
存在を忘れていた手の中のタバコに口を付ける。いつのまにか随分と短くなっていて、稼げる煙は残り少ない。
腕を伸ばして、チェストに放置してあった灰皿の底にタバコを押し付け火を消す。
バサリ、と音がした。
顔を上げられないでいると、次いでギシリとベッドが軋む。
反射的に向けた瞳が、綺麗な黒曜石を映した。
「ねぇ、もっと寄ってよ。」
「・・・あ?」
「あ?じゃなくて。寝るんだから、スペース空けてくれる?」
「・・・。」
無言で身を壁側に寄せると、ベッドに片足を乗せていたハクがすかさず滑り込んでくる。
俺に背を向けて丸まった姿は、そこに収まるのが極自然であるように警戒心が薄かった。
「・・・。」
意外だ。そして不思議でもある。
てっきり誰かと一緒に寝るのが苦手かと思っていたのに。
それは、たかだか雨程度。
なのに、自由で気まぐれな少女を俺の腕に閉じ込められるとは、なんて妙な感慨。
嬉しいけど、暴れ出したくて叫びたい。そんな微妙な気分だった。
雨のせいで窮屈な冬の夜は、まだ深い。
俺は、酷く唐突に訪れた延長を有り難く受け取ることにする。
ベッドに潜り込むと、まだ湿った温かさがあった。それから、俺のものではない体温が側にあり、俺のものではない微かな吐息が聞こえる。
ああ、そうか。
誰かと一緒に寝るのは、こんなにも。
少しだけ泣きそうになって、目を細めた。涙はこんなに呆気なく出るものだったか。
「ハク。」
「んー?なに・・・って、うわ!」
半分くらい寝かけていた彼女の腹に手を回し、思い切り引き寄せる。
じんわりと細い背中から伝わってくる体温が近くて、薄いシャツを酷く邪魔だと思った。
僅かな隙間を嫌うように、俺は目の前にある頸に唇を寄せる。
ちゅ、とわざとらしいリップ音を鳴らして吸い付けば、腕の中の少女は手を翳して首を守った。
「え!?ちょっと、跡付けた?」
「付けてねぇ。ただの口付けだ。」
「あーそう。・・・どうしたの、いきなり。」
「気まぐれ。気にすんな、寝ろ。」
「えぇ・・・、普通に気になるよ・・・。」
ハクは後ろから抱きしめられたまま、こちらを向こうともしない。
でも、彼女がされるがままでよかった。
今その黒曜石を見たら、俺はまた彼女を求めてしまうだろうから。
微妙な気分の激情を打ち付けるように。刻むように。
酷く。
頼むから振り返らないでくれ。
願いが通じたのか、やがて彼女の体から力が抜け、安定した吐息が聞こえ始めた。
それを確認してから、俺はようやく肩の緊張を解く。
小さな嘘をついた。
先程口付けた首筋は、うっすらとだが鬱血痕が咲いている。
多分朝までには消えてしまうくらい、薄い赤。短い独占欲に、きっと彼女は気づかない。気づかなくていい。
目を閉じる。
耳をすませば、なるほど確かに雨が窓を叩く音が、途切れ途切れに聞こえた。
溶け出すような雨音は、穏やかに沈黙を埋めて。二人分の吐息の温度と混ざり、暗い部屋に落ちていく。
微睡み始めた意識の隅で、俺はふと考えた。
雨が降り止むまで帰れないと言った少女の、では帰る場所とは何処なのか。
また疑問が増えた。聞けずに降り積もるだけの、それら。
まるで、胸に残って離れない香水のように、甘く誘惑してくる邪魔な存在。
ごちゃごちゃにかき混ぜられた思考が、鬱陶しくて堪らない。
逃げるように、ハクを抱く腕に少し力を込めた。
少しだけ慣れてきた、酷く近い香りに安心して、俺は意識を深く沈める。
朝日が昇る頃、温もりが離れていないことを願いながら。
唯一の光を、雨に閉じ込めたまま。