その視界を彩るもの
* * *
朱里は聡明で敏い女性だったが、そのときばかりはそれが裏目に出た。
「浮気してるでしょ」
当の勇ですら気付くのは時間の問題だろうと踏んでいたが、朱里は勇と例の女性が関係を持った当日にその事実に気付いた。
そして躊躇いはしたものの、臆する様子も見せずに自らの夫を問い詰めた。
その現場を、幼き日の勇蔵が見ていたとは知らずに。
朱里に限らず、勇もリビングの戸に隠れ目を覗かせる息子に気付くことは無かった。
段々と口調を強めていく朱里に触発され、勇の口からも日頃の鬱憤が堰を切ったように溢れ出してきていたのだから。
日頃は満面の笑みで自分を視界に映してくれる両親なのに。
穏やかで優しい表情ばかりを浮かべるような二人なのに。
いつもなら、もっと、違うのに。
『……お父さん、お母さん……』
人間というのは不思議なもので、一度衝撃を受けてしまうと中々それを忘れることなんてできない。
勇蔵にとってみれば、信じたいのは今までの穏和な両親に他ならなかった。
だけれど、強い衝撃として彼の網膜に焼き付いたのは口論を激化させる二人で。
静かに目を閉じ、そんな二人に背を向けた少年は自室へと踵を返す。
どうにか忘れられないかと願った。けれどそんな願いも空しく、このときの光景は何年経っても色鮮やかな記憶として刻まれることになる。
皮肉にも其れまでの優しい二人のほうが仮面を被っていたんじゃないかと、疑ってしまうほどに。