一目惚れの彼女は人の妻
 名刺交換の後、俺は手早く、持参したアジェンダやその他の資料を全員に配った。宏美さんは、背筋をピンと伸ばし、なぜか胸の前で腕を組んでいた。

 そして座った位置は、宏美さんの真ん前だった。斎藤さんが立って何かを言っていたが、俺はずっと宏美さんを見ていた。宏美さんには、目を逸らされてしまったけれども。

 ちょうど斎藤さんの話が終わった時、宏美さんの隣の篠崎課長が、なんと宏美さんの耳元に顔を寄せ、何かを囁いたようだった。すると宏美さんは、一瞬だけ俺を見て、逆に篠崎課長の耳元に口を寄せ、何かを囁き返したようだった。

 チェッ。この二人、ずいぶん仲がいいんだな、と思った瞬間、俺の頭の中で、ある光景がフラッシュバックした。それは、俺が宏美さんに出会ったホームセンターでの一コマであり、宏美さんが「あなた!」と、旦那に話しかけたシーンだ。

 その旦那こそ、今、俺の目の前にいる、篠崎課長その人だった、と思う。

 いや、待て。二人は苗字が違うじゃないか。宏美さんの苗字は”田村”で、”篠崎”ではない。念のためテーブルの上の彼女の名刺を見たが、間違いない。

 やっぱり人違いかなと思ったが、女性は結婚して苗字が変わっても、会社では旧姓を使う事が多い事を思い出した。つまり”田村”は、宏美さんの旧姓なのだろう。

 俺はこれからずっと、この二人がイチャイチャするのを間近で見る事になると思ったら、宏美さんと再会した喜びも、緊張も、全部どこかへ飛んで行ってしまった。
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