オフィスの野獣

「……あの夜のこと、どこまで思い出せる?」

 確認の意味でそれとなく尋ねられた。
 思い出そうとして、窓の外の目を惹く夜景に意識を向けた。


「雨が……雨が降ってた、くらいかな……」

 その前後のことは、うまく思い出せなかった。雨が降っていた日に、自分が何をしていたのか、何があったのか、何も――。


 お粥が冷めるくらいの沈黙の後、西城斎がそっと口を開けた。



「……ごめん。教えてあげられない」


 しかしそれは、私が望んだ答えとはかけ離れているものだった。答えを濁された。どうして。


「どうしてよ」

「……藤下さんが、傷つくから」


 彼はそれだけ答えてくれた。
 傷つく、それだけのために、彼は言葉を濁した。
 何に傷つくというのだろう? もうとっくに、傷つけられた。


「意味わかんない……一体どの口が言ってるの。この身体は、もうすでに傷つけられたんだから、今更……」

「そういうことじゃないんだ」


 西城斎が何を考えているのかわからない。何を隠そうとするのかわからない。

 それでも、この心の穴は埋められないという悲しい事実だけは、明白だった。


「ごめん。うまく言えないけど……ボロボロになって泣いてる君を俺はもう見たくない」


 ……そんな自分勝手があるか。
 また彼の綺麗な顔を引っ叩いてやりたい。でも、二度目はやめておいた。
 私は、どうやらあの夜に泣いていたらしい。彼がそんな私のために黙ってくれていることは、よくわからないけどわかるから。

 その日は西城斎に再び無理やりなことをされることはなく、彼はただ私の容体を気遣ってくれて、お粥を温め直して持ってきてくれた。
 着替えも寝るときも、彼は別の部屋にいると、ここを譲ってくれた。私を馴れ馴れしく下の名前で呼ぶことはなかった。彼のことがよくわからない。
 会社の女の子達が噂する優しい彼も、私を傷つけた最低な奴も、どちらも西城斎に変わりはない。だから、本当の彼がどんな人なのか、わからなくなる。

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