オフィスの野獣
デート
土曜日の朝、渋谷駅で待ち合わせ。時間通りに駅には着いた。
都会の喧騒に紛れて、気持ちは向かないが重い一歩を踏み出していく。
前野君とこの日二人だけで待ち合わせ、つまりデート。
何十回と断ってきたけど、それも長くはもたない。諦める様子のない前野君に、私が折れるしかなかった。
それに……彼の言葉に従うわけではないけれど、いつまでも昔を引き摺るわけにはいかない。
最初で最後の相手が西城斎だなんて、最悪だ。このままでは女の恥だ。
あれだけ大口を叩いてきたけれど、こんな年齢でロクに経験がなければ、あの百戦錬磨の野獣に相手にされないのも仕方ない。
いつかは克服していかなければいけないこと。それがわかっていたから。だけどそれはとても怖いこと。
数日前に渡された部屋の鍵をスカートの上から握りしめる。彼が私に預けたお守り。
持ってくる必要なんて本当にあったのか。あんな男の言うことなんて、聞き流せばいいのに。
こんな時にも大嫌いな奴の顔が頭から離れなくて、正直会社の同僚とデートどころじゃなかった。
けれどこんな都会の群衆にかき混ぜられる中で、向こうは先に私を見つけたようだ。
「藤下さん」
いつも会社で見る前野君ではなく、紺のダウンを着て今時の若者らしい服装で現れた。パッと見は前野君だとすぐに気づかなかった。
「藤下さんってすぐに気づかなかった。すげー可愛い」
それは相手も同じようだった。春にはまだ早いので、グレーのコートの下に無難な服を合わせてきた。髪も櫛で梳いて身嗜みにはそれなりに気を遣ったけど、前野君からストレートに褒められるとは思わなかった。お礼を言うのに少し戸惑う。
「それじゃあ、行こう」
今日は映画とご飯に行く予定だ。夕方には解散できる。
ロクに男性と二人で出かけたことはなかったが、歩き出そうとする前野君が当たり前のように私の手を繋いで歩き出したので、振りほどくべきか迷う内に彼の後ろを追いかけていた。