オフィスの野獣

 前野君と二人で過ごした時間は、今日まで気構えていたほど窮屈なものではなかった。
 普通にいい人だし、私に向ける笑顔は可愛いと思う。そんな彼の笑顔を見ていると、あっという間に時間が過ぎていく。


「あのさ……今日だけは下の名前で呼んでもいい?」


 カフェを出て、並んで歩きながら手を握られる。彼も少し強引な人だと思う。
 悩んだけれど、これといって断る理由もなかった。そして彼はホッとしたように笑った。


 案外単純で、いい奴なんだろう。
 彼のあの言葉の意味が、少しずつわかってくる。
 今まで卑屈になっていただけだ。案外親切な前野君は、きっと私を傷つけるようなことはしない。

 臙脂がかる遠くの空に、パラパラと雨粒が滴る。


「あれ、天気予報外れたのか? 参ったな」

 駅に向かう人々は、雨を避けるように早足に通り過ぎる。

「どうしようか、もう帰る?」

 ……あの夜と同じ雨の音。胸を締めつけられるような不安が襲う。
 身に覚えがない感情に、偽善者ぶったあの人の顔が思い浮かぶ。未だにこの気持ちをどう整理していいかはわからない。


「うん」

「……俺は、もう少し二人でいたいんだけど」


 繋がれたら手を引かれて、二人で歩いていた歩道の脇に立ち止まる。
 真剣な眼差しで、前野君がこの手を引き止めようとしている。隣に前野君がいてくれたおかげで、少し落ち着くことができた。
 こんなに近くで男の人の顔を見つめることには慣れていないけど、これまでの前野君を見ていると嫌な気はしなかった。

「……わかった」

「よかった……」


 私が頷くと、安堵した表情を浮かべた。
 この後はどう過ごすのか思いつかないけれど、その返事が合図のように前野君に唇を塞がれた。
 髪からはほのかに彼が使う整髪料の香りがする。爽やかなミント系の香り。

 触れるだけのそれだったけど、心臓を鷲掴みにされるには十分だった。不意を突かれて頭が真っ白になったけれど、その後は二人で踵を返して駅に向かう人々とすれ違う。



 雨の音を聞きながら、いつか西城斎ともこんなことをしたのかと考えてしまった。

 彼とした時に、自分は何を思っていたんだろう。彼からはどんな香りがしたんだろう。何回唇を重ねたんだろう。
 ――気づけばまたそこにいない人のことを考えていた。

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