オフィスの野獣
雨の記憶が、蘇る。
あの夜も、雨に濡れる中、私はこの男から逃げていた。
何年という月日が経つのに、私の顔をはっきりと憶えていたらしい。
また昔のように傷つけられると思ったから、私は無我夢中で逃げた。
父親のDVで苦しんだ母は、幼い私を残して家を出た。
それから五年間もあの男と同じ屋根の下で生活をともにするしかなかった。暴力は日常茶飯事で、毎日が地獄だった。
父の虐待が判明して施設に引き取られてからは、平穏に暮らすことができたけど、父から植え付けられた恐怖はなかなか取り除けなかった。
男の人に話しかけられると、父のように殴られるんじゃないかと怖くなって、自分から距離を置いた。
傷はずっと癒えることはなく――……。
父は今も私のことを探し続けて、そしてここで見つかってしまった。
まるで生きた心地がしなかった。
尻もちをついてもこの人から逃げようと、後退るけれど、泥で滑って体勢を崩す。
大きく広がる水溜りに、私と彼の影が被さる。
「お仕置きだ」
「お父さん、嫌ッ……!」
叫んでも叫んでも、雨の音にかき消される。
あの夜のように……裏路地に潜んで、雨の音にかき消されそうな私の声を、通りすがりに拾ってくれた彼にどうか届いてほしいと祈った。