オフィスの野獣
番外編
「ねえ、名前で呼んで」
そんなことを言われるために、態々人が散った後のタイミングを狙って、この西城斎に言い寄られる。
「また何の冗談なの」
「冗談じゃない本気。名前で呼んでよ」
いや、どうしてこんなところで突然なんだ。別にここのオフィスじゃなくったって、二人きりの時に言えばいいものだ。社会人としてもっとTPOをわきまえろ。
「いつも普通に呼んでる」
「全然だよ。俺のことなんかお前か貴様ばっかり。全然可愛げがない」
包み隠さず捻くれた顔をしたこの男に正面からイチャモンをつけられている。なんだ子供か。
どうして急に私情のクレームを入れられなきゃならないのかちゃんちゃらわからん。
「じゃあこんなところで言わないでよ。まだ勤務中でしょうが」
「知ってる。その方がなんかスリルがあるじゃん」
「そんなもんは求めてないわ」
こっちはクライアントからの発注書をさっさと片付けたいというのに。こんなことでいちいちちょっかいを出されては困る。
けれどおふざけが好きで、なんだかんだで私よりも器用に仕事をこなすこの男には通じない。
「俺は日常から美弥子って愛着を持って呼んでいるのに」
「でもあんただって、ここじゃ藤下さんよね? 次から西城って呼んであげるわ。これでいいでしょう?」
いつしかオフィス内の誰かのデスクの脇まで後退りしながら、彼のくだらない答弁に言い返した。それで満足? そんなわけない。
腰がデスクの角にぴったりとくっついて、背筋が若干仰け反る。そしてその斜め上空から、獲物を自らの巣に追い詰めるかのように被さる彼の一回り大きな影。西城斎のもの。
「美弥子」
「……」
「俺は、結構好きなんだよ。美弥子って、好きな気持ちを噛み締めてる感じ」
調子のいいことを言いながら、そんな顔をされてしまうと私のバツが悪いだろう。
それもきっとこいつにはわかりきっていることだから。
「ねえ、斎……」
私にとって彼の名前は、好きと伝えるほど特別なものだから――。
でも今日は完敗だとおとなしく認めて、誰も知らない二人だけのオフィスでこっそりと、彼の甘い口づけに酔い痴れた。