オフィスの野獣

 これまで別れた娘達は、大抵「俺といると不安になって気が気じゃない」とわけのわからないことを言って逃げてしまう。
 彼女達が何を言いたいのかを知る由もなく、俺は去る者は追わずのスタンスでこれまで数多くの人々と付き合っていた。

 だけど、今は彼女達の気持ちが痛いほどわかるよ。




 その原因となる会社の同僚を、少し離れた場所から見守りながら自販機で買ったホットコーヒーを啜る。味なんかどうでもいい。
 俺の視界に映るところで他の男の同僚に構っている彼女を見ていると、気が気じゃない。なんか目が離せない。


「最近めっきり綺麗になったよなあ。藤下さん」

「人の彼女をどういう目で見てんだ。前野」


 隣でコソッと野次を飛ばす前野を睨みつけて、この苛立ちを少しでも発散しようと試みたがこいつじゃ大して効果はなかった。


「明らかに男ができたってのに、ああやって他の男が放っとかないんじゃ心配だろう。彼女があんなにモテたんじゃ。逃した魚はでかかったよ」

「うるさい蝿だな、君は。俺は別に動揺してなんかいないさ」

「缶コーヒー握り潰してるけど」


 前野に指摘されてそれにはたと気づく。
 幸い中身は飲み干していたけど、これは図星だとそいつにバラしているようなものだ。なんか、イライラしてる。


 最近はメイクも服も、以前よりも気を遣うようになったらしい。垢抜けた美弥子はそりゃもう社内が騒然とするほど可愛いくなったけど、蝿が集ってくるのにはやはり目がつく。

 同僚の男達に囲まれて時々微笑みを浮かべる彼女に、この胸は風穴を開けられたようだ。そんな些細な苛立ち。
 俺にさえあんな可愛い顔なかなか見せてくれないってのに。なんだよ。



 その日はあまりに機嫌が悪くて、前野に色々あたってしまった。泣かせるつもりはなかったんだけど。

 周りの気を遣う声にもうんざりして、一人で呑み屋をフラフラしてから帰宅をすると、部屋の明かりがついていた。


「どうかしたの?」

 酔っ払ってはいないけど、遅くまでフラフラしていた俺にそうやって声をかける。
 自分の悩みがあんまりにもダサくって、本当のことなんか言い出せない。


「なんでもないよ」

「そう? そんな顔には見えないけど。前野君と何か揉めたんだって?」

 自分が着ていた上着を器用に畳みながら、会社のことを口にする。
 確かに些細なことだ。だけど全部君のせいだよ。

 

「美弥子――」


 着替えようとしていた美弥子の背中に抱きついて、彼女のにおいが詰まったシャツに顔を埋める。
 雨の夜に、壊れないように抱きしめた小さな背中。
 昼間の、あの光景を見ていると、いつか俺のもとを離れてしまうんじゃと不安が過ぎる。

 首を傾けた彼女がこちらに視線を寄越す。
 その頰は、俺より若干火照っている。


「どうしたの?」

「……ううん。美弥子を独り占めしたくて」





 こんなこと、馬鹿正直に言えるわけないだろ。



 半分はだけたシャツの下に、酒が馴染んだ舌を這わせて、頃合いを見て二人の身体をベッドに預ける。
 貪るように彼女の肌に吸い付いて、白い肌をしつこく虐めて、そうしていると向こうには疑問を抱かれた。


「ね、何焦ってるの?」

 突拍子もないことを言われてしまう始末。

 俺、焦ってんのか?


「いや……呑みすぎたのかも。気をつけるよ」

「……妬いてくれてるの?」


 余裕がないくせにそんなところは鋭く言い当てる彼女にはヒヤヒヤさせられる。でもなんとなく口が重くて、この場を誤魔化す言い訳が出てこなかった。


「馬鹿ね。私がどうして会社で身なりを気にするようになったか、考えたことある?」

「えっ……」

 不意に俺の顔に彼女の手を添えられて、動作が止まる。自分から仕掛けてきたくせに、もじもじと歯切れ悪く、美弥子は言った。


「その……斎が、初めてだから、他の女の子のところに目移りしちゃうのが嫌なの。私なりに、あんたに相応しい彼女になろうとしてるのよ。カッコ悪いでしょ」




 馬鹿だよな。こんなに愛されてるのに、目の前にあるそれにも気づかないなんて。

 焦っていたのは、それほど君のことが掴めなくて、本気だから。ちゃんとこの手で掴んでいたいからだ。


 嫌がる君をこの手に受け止めて、もっともっと君のそばにいたくなった。



「美弥子は可愛いからいいんだよ。気分がいいから今日はたっくさん可愛がってあげる」

「ちょ、明日も出勤なんだけど……」

「ダメだよ。会社の奴らなんかより、今は俺だけを見てなよ」



 赤面して困りながら、俺の首元に回す腕に力を込める。そんな君の不器用なところが好きなんだ。

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