シュガーレス
外に出ると明るい陽の光に目を細める。緩やかに雲が流れる穏やかな空に誘われるようにあくびが出てしまった。午後は眠気との戦いになりそうだ。
マナモードを解除していた携帯の着信音が鳴る。新着メール一件。相手は堤さんだった。
「今日一緒に帰ろう。第三駐車場で待ってる」。
一緒に帰ろうだなんて。以前のセフレだった頃を思うと考えられない誘い。自然と口元が緩む。実は今日の午前中に、もう一つ嬉しいことがあったんだ。
定時を過ぎた頃、堤さんの姿がないことに気づいて私も退社した。駐車場に行くとすでに堤さんがいて彼の車に乗り込んだ。
「どうして今日は車なの?」
「別に理由はないけど」
「ふーん」
従業員の数に比べ駐車場の数は少ない。車に乗らない私は詳しいことはよく分からないけど、使用する際は前もって届け出が必要だったんじゃなかったっけ。違ったかな。
「外が明るい。こんな時間に帰るの久々かも」
「だいぶ日が長くなったよな。ちょっと前ならこの時間ならとっくに真っ暗だった」
「たしかに」
発車してすぐに信号につかまる。ただでさえ信号も多く混みあう街中。帰宅ラッシュのこの時間は道も渋滞。帰宅の路につく人々の景色を車の中から眺めているとなぜだか少しの優越感を感じた。徒歩で歩く人よりも進むのが遅いのに。変なの。
渋滞を抜けて車が走り出したところでふと今朝の出来事を思い出した。
「チョコ、受け取らなかったんだって?」
「……は?」
突然の私の言葉に、堤さんは眉をひそめた。そして私の言いたかったことを理解すると「あぁ、そのこと」と言って口元を緩めた。
今朝始業前にトイレへ行こうと事務所を出ると、事務所の外で女性同士の噂話が聞こえてきた。
堤さんに想いを寄せていたあの後輩は、今は別の男性社員に夢中らしい。バレンタインの日に告白をしたが断られ、用意していた手作りチョコも受け取ってもらえなかったらしい。受け取るくらいすればいいのに、と心の中で呟きつつ喜びを隠せず軽い足取りでトイレに向かった自分。
「なんで? 受け取るくらいしてあげればよかったのに」
「チョコだろ? 俺甘いもの大嫌いだし。甘い匂いを想像するだけで胸やけを起こす」
「それは言いすぎじゃない?」
「どうして? 実希子なら分かってくれると思ったんだけどなー」
「はい?」
「前に客からもらったガムを喜ぶと思ってやったのに、「私、ガムはシュガーレスしか噛みませんので」って冷たく返さ……」
「だからごめんて! ……でも、ほんとのことだし」
「なんだこの女は、コイツ女なのか? って思ったよ」
酷い悪口を言いながら、表情は楽しそうだ。
「あの時はただ……」
「ただ?」
「あなたの前で、ガムを噛むとか、出来なくて……」
「なんだそれ。まさかおまえキスを期待して……」
「なんでそうなる? バカじゃないの?」
「怒るなよ、冗談だよ。ははっ」
「つまんない冗談!」
……そうだった。パートナーを組んだばかりの頃。何をするにも心臓がどきどき言って、ご飯どころかガムでさえ口に入らなかった。それに動揺を隠すためには冷たく突き放す方法しか分からなかったんだ。
「最近、会ってなかったけど。何してたの?」
「んー、いろいろ」
「いろいろ?」
疑問に首をかしげたところで車が停車した。
窓の外の景色に目を向ける。日はすっかり沈んで夜の街に明かりが灯っていた。入り江を挟んで街と観覧車の明かりが見える。
会話が途切れるとはじめてオーディオから聞こえてくる音楽が耳に流れ込んできた。こんな人気のない場所で一体何……?
「どうしたの?」
「うん。少し休憩して話をしようかなって」
「話って……わざわざこんな静かな暗い場所で?」
「別に場所はどこでも……」
「はっ。まさか。こんなとこでしたくなったとか言うんじゃないでしょうね?」
「ち、違う」
「仕方ないけどさ。しばらく会ってなかったし。でもせめて家かホテルくらいまで我慢できなかった?」
「……話聞いてくんない?」
改まってする話って……? 聞きたいような、自分の期待とは違うことを言われたらと思うと聞きたくないような。胸がきゅっとなって、息苦しさに何かしゃべらなくてはと一人で焦り出していた。
「しょうがないな」
シートベルトをはずして堤さんに腕を伸ばしたところで、制止されて伸ばした手を掴まれた。
「俺は甘いもの嫌いだしついでに言うと女が喜ぶような甘い言葉も苦手だ」
「うん、知ってる」
女の扱いには慣れていそう。女を喜ばせる台詞、いっぱい吐いてそう。
女の子と一緒にいることが多い印象が強かった彼は、最初はそんなプレイボーイのイメージがあったけど、一緒に働くようになって近くで見るようになってからは印象が変わった。本当は、とても不器用な人。
「だから一回しか言わない。よく聞け」
心臓の高鳴りは最高潮。ついには全身が震えだしてきた。
「実希子、何も言わず黙ってニューヨークについてきてくれ」
「……それって?」
「ずっと一緒にいよう」
だからそれってどういう意味?
この期に及んでも口から出ようとする言葉はこんな可愛げのない台詞ばかり。でも込み上げてきた思いが嗚咽になってあらわれて何もしゃべれなくなってしまった。
「とりあえず、頷けば?」
その言葉に促されて大きく頷くと、引き寄せられて包まれた温かい体温に最後に一つだけ大粒の涙が流れた。
そしてキスをした。恋人同士がする永遠に続く長い長いキス。
<終わり>
マナモードを解除していた携帯の着信音が鳴る。新着メール一件。相手は堤さんだった。
「今日一緒に帰ろう。第三駐車場で待ってる」。
一緒に帰ろうだなんて。以前のセフレだった頃を思うと考えられない誘い。自然と口元が緩む。実は今日の午前中に、もう一つ嬉しいことがあったんだ。
定時を過ぎた頃、堤さんの姿がないことに気づいて私も退社した。駐車場に行くとすでに堤さんがいて彼の車に乗り込んだ。
「どうして今日は車なの?」
「別に理由はないけど」
「ふーん」
従業員の数に比べ駐車場の数は少ない。車に乗らない私は詳しいことはよく分からないけど、使用する際は前もって届け出が必要だったんじゃなかったっけ。違ったかな。
「外が明るい。こんな時間に帰るの久々かも」
「だいぶ日が長くなったよな。ちょっと前ならこの時間ならとっくに真っ暗だった」
「たしかに」
発車してすぐに信号につかまる。ただでさえ信号も多く混みあう街中。帰宅ラッシュのこの時間は道も渋滞。帰宅の路につく人々の景色を車の中から眺めているとなぜだか少しの優越感を感じた。徒歩で歩く人よりも進むのが遅いのに。変なの。
渋滞を抜けて車が走り出したところでふと今朝の出来事を思い出した。
「チョコ、受け取らなかったんだって?」
「……は?」
突然の私の言葉に、堤さんは眉をひそめた。そして私の言いたかったことを理解すると「あぁ、そのこと」と言って口元を緩めた。
今朝始業前にトイレへ行こうと事務所を出ると、事務所の外で女性同士の噂話が聞こえてきた。
堤さんに想いを寄せていたあの後輩は、今は別の男性社員に夢中らしい。バレンタインの日に告白をしたが断られ、用意していた手作りチョコも受け取ってもらえなかったらしい。受け取るくらいすればいいのに、と心の中で呟きつつ喜びを隠せず軽い足取りでトイレに向かった自分。
「なんで? 受け取るくらいしてあげればよかったのに」
「チョコだろ? 俺甘いもの大嫌いだし。甘い匂いを想像するだけで胸やけを起こす」
「それは言いすぎじゃない?」
「どうして? 実希子なら分かってくれると思ったんだけどなー」
「はい?」
「前に客からもらったガムを喜ぶと思ってやったのに、「私、ガムはシュガーレスしか噛みませんので」って冷たく返さ……」
「だからごめんて! ……でも、ほんとのことだし」
「なんだこの女は、コイツ女なのか? って思ったよ」
酷い悪口を言いながら、表情は楽しそうだ。
「あの時はただ……」
「ただ?」
「あなたの前で、ガムを噛むとか、出来なくて……」
「なんだそれ。まさかおまえキスを期待して……」
「なんでそうなる? バカじゃないの?」
「怒るなよ、冗談だよ。ははっ」
「つまんない冗談!」
……そうだった。パートナーを組んだばかりの頃。何をするにも心臓がどきどき言って、ご飯どころかガムでさえ口に入らなかった。それに動揺を隠すためには冷たく突き放す方法しか分からなかったんだ。
「最近、会ってなかったけど。何してたの?」
「んー、いろいろ」
「いろいろ?」
疑問に首をかしげたところで車が停車した。
窓の外の景色に目を向ける。日はすっかり沈んで夜の街に明かりが灯っていた。入り江を挟んで街と観覧車の明かりが見える。
会話が途切れるとはじめてオーディオから聞こえてくる音楽が耳に流れ込んできた。こんな人気のない場所で一体何……?
「どうしたの?」
「うん。少し休憩して話をしようかなって」
「話って……わざわざこんな静かな暗い場所で?」
「別に場所はどこでも……」
「はっ。まさか。こんなとこでしたくなったとか言うんじゃないでしょうね?」
「ち、違う」
「仕方ないけどさ。しばらく会ってなかったし。でもせめて家かホテルくらいまで我慢できなかった?」
「……話聞いてくんない?」
改まってする話って……? 聞きたいような、自分の期待とは違うことを言われたらと思うと聞きたくないような。胸がきゅっとなって、息苦しさに何かしゃべらなくてはと一人で焦り出していた。
「しょうがないな」
シートベルトをはずして堤さんに腕を伸ばしたところで、制止されて伸ばした手を掴まれた。
「俺は甘いもの嫌いだしついでに言うと女が喜ぶような甘い言葉も苦手だ」
「うん、知ってる」
女の扱いには慣れていそう。女を喜ばせる台詞、いっぱい吐いてそう。
女の子と一緒にいることが多い印象が強かった彼は、最初はそんなプレイボーイのイメージがあったけど、一緒に働くようになって近くで見るようになってからは印象が変わった。本当は、とても不器用な人。
「だから一回しか言わない。よく聞け」
心臓の高鳴りは最高潮。ついには全身が震えだしてきた。
「実希子、何も言わず黙ってニューヨークについてきてくれ」
「……それって?」
「ずっと一緒にいよう」
だからそれってどういう意味?
この期に及んでも口から出ようとする言葉はこんな可愛げのない台詞ばかり。でも込み上げてきた思いが嗚咽になってあらわれて何もしゃべれなくなってしまった。
「とりあえず、頷けば?」
その言葉に促されて大きく頷くと、引き寄せられて包まれた温かい体温に最後に一つだけ大粒の涙が流れた。
そしてキスをした。恋人同士がする永遠に続く長い長いキス。
<終わり>