人魚姫の涙
「ただいま」


重い玄関扉を開けて、小さな声でそう言う。

すると、キッチンから「おかえり~」と母さんの声が聞こえた。

でも、いつも一目散に迎えてくれる紗羅の姿はない。


「母さん、紗羅は?」


キッチンで規則正しく包丁を動かす母さんの背中に問いかける。

すると、少し驚いたような顔で振り返った。


「あら? 一緒じゃなかったの? てっきり、あんたの大学に行くって言ってたから、一緒だと思ってたのに」

「まだ、帰ってねぇの?」

「えぇ」


キョトンとする母さんの顔を見て、俺はまた弾かれたように家を出た。

まだ、帰ってないって。

どこに行ったんだよ。


家の外に出て自転車に跨り、勢いよくペダルをこぐ。

どこにいるかなんて分からないけど、じっとなんてしていられなかった。

だけど、その時不意に目に留まった真っ赤な夕日に目が止まる。

それを見た瞬間、ピンと頭の中で1つの場所が思い浮かんだ。

きっと、あそこだ―――。
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