御曹司は偽婚約者を独占したい
「っていうか、そもそも近衛のフィアンセが、本当に実在しているのかも怪しい。まさか、この日のために偽者を用意したとか言わないよな?」
──当たらずといえども遠からず。
黙り込んだまま答えることはしなかったけれど、さすが、俺をよく知る友だと感心せずにはいられなかった。
思い出すのは、あの日──美咲に、偽のフィアンセを演じてほしいと頼んだときのことだ。
まさか、彼女にそんなことを頼む日が来るとは、彼女と初めて会った日には想像もしていなかった。
『いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ』
引っ越してきて早々、仕事終わりに偶然立ち寄った小さなカフェ。
そこで、偶然バリスタとして働いていたのが彼女……美咲だった。
初めて聞いた彼女の声は、鈴の鳴るような繊細で美しいものだったことを覚えている。
いかにも、マスターのこだわりが詰め込まれたといったふうの店内は不思議と居心地がよく、足は自然と窓際の席へと向かっていった。
『ブレンドをひとつ』
もう、閉店まであまり時間もない。
だからというわけではないが、なんとなく無難な注文をした。
すると、しばらくもしないうちに頼んだコーヒーが運ばれてきた。
一口飲んで、目を見張った。
そうして俺は、ついカウンターに控える彼女へと視線を滑らせた。
俺の視線に気づくこともなく、彼女は黙々と仕事をこなしていた。
どこにでもある、ブレンドコーヒー。
だけどそれは、どこの店で飲むよりも香り高い風味があり、とても優しい味わいだった。