御曹司は偽婚約者を独占したい
初めのころは大切なお客様だから……と思い、彼の話を真剣に聞きながら相槌を打った。
別に彼だけを特別扱いしたわけではなく、相手が誰であろうと同じように接しているつもりだ。
クロスケさんの話は、正直に言ってしまえば子供のような愚痴にも聞こえたし、わからないゲームの話を聞かされても「すごいですね」と答えるので精一杯だった。
けれど、ある日、いつものようにオレンジジュースをテーブルまで運んで彼のとりとめのない話を聞いたあと……。
仕事だからと話しを切り上げカウンターに戻ろうとしたところで、突然、腕を掴まれた。
加減を知らない男の人の力で掴まれたせいか危うく転びそうになったし、痛さで眉根を寄せてしまった。
それでもクロスケさんは、そんな私を気にする様子もなく、『今度うちで一緒にゲームをやらないか?』と尋ねてきたのだ。
『知花さん……いや、美咲ちゃんって、いつも優しいからさぁ。俺、美咲ちゃんのこと気に入っちゃった』
ニタリとした笑みを浮かべるクロスケさんを前に、背筋が凍りついた。
私の名前が【美咲】だということは、常連のおじいちゃんが私を『美咲ちゃん』と親しみを込めて呼んでいるのを聞いて知ったのか。
だからといって、その常連のおじいちゃんに呼ばれるのと、彼に呼ばれるのとでは事情が違う。
他のスタッフが彼の様子がおかしいと気がついたのも、この頃だった。