青いチェリーは熟れることを知らない①

瑞貴を突き動かした男の名

 ――駅までの道のりを足早に歩く王子系男子の後ろを、いわゆるイケ女的なOLふたりが肩を並べて歩いている。
 まだまだ夜のオフィス街には灯りが多く、仕事帰りのスーツ姿の男女は緊張から解放されたような清々しい面持ちで駅へと吸い込まれていく。

「桜田っち、この後ちえりっち送っていくんだよね?」

 腕時計を確認しながら隣に並んだ長谷川が、ちょいちょいと近くの公園を指差しながら行く先を誘導してくる。

「そうだな。もう帰って来てるといいけどな」

 視線も合わせることなく素っ気ない返事の瑞貴だったが、とあることに気が付いた。

「そういえばお前いつから"ちえりっち"って呼ぶようになった? 最初"若葉っち"だっただろ」

「あー温かい珈琲が飲みたいなー」

 唐突に声を上げた長谷川と視線が絡んだ三浦が文句のひとつでも言いたそうにコンビニへと向と、向き直った長谷川は風に靡いた前髪を指で梳きながら口を開いた。 

「あーごめんね。不満だった? 桜田っちがそう呼ぶと、ちえりっち凄くいい笑顔するんだよねー。あの笑顔いいなーって眺めてたら、いつの間にかそう呼んでて」

 裏表のないちえりの笑顔は他人に安堵感を与える不思議な魅力があった。ちえりは自分に魅力がないと常々そう思っているが、自分が気づいていないだけである。

「……そっか」

 長谷川の言葉に驚いた表情で見つめていた瑞貴の表情がフッと和らいで。夜空を見上げた瑞貴の頬を爽やかな風が通り抜ける。

「でもさ、あの鳥居っちは最初から"チェリー"って呼んでたじゃん? 仲いいんだなーって思ったけど、……そういうの桜田っちは嫌じゃないの?」

 あの幼馴染の……瑞貴の妹の真琴でさえ、ちえりのことをチェリーとは呼んだことがない。
 幼い頃に自分の名前を名乗った"ちえり"の聞き間違いからずっと"チェリー"と呼んでいるのは瑞貴と……瑞貴の母親だけだ。
 そのことを知るはずもない長谷川が言いたいのは、恐らく瑞貴の意中の相手であるちえりが特別な呼び名で呼ばれていることをどう思っているか? である。

「鳥居がちえりをそう呼ぶのは、俺が最初そう呼んでたのを聞いてたからなんだ。ちえりが嫌じゃなければ別に……」

 そう言いながらもチクチクと胸の奥に痛みが走るのを瑞貴は気づいていた。

「じゃあさ、三浦っちが"瑞貴"って呼ぶのは? それはどうなの? 桜田っちが何とも思ってないから別にいい? ちえりっちの気持ちは? 出張から帰ってきたとき、三浦っちと急接近したのかなって勘繰ったりもしたけどさ、桜田っちは変わらずちえりっちのことしか見えてないのわかるよ? このままだとふたりとも傷つけることになると思うんだ」

「あれは――」

「漫画だったらこういう四角関係っぽいの好きだけどさ。誰のためにもならないんじゃないかって正直思うんだよね」

 弁解を図ろうとする瑞貴の言葉を遮った長谷川。彼女はこれ以上望みもない三浦が傷つくのも、皆の仲がこじれるのも避けたいのだとわかる。

「……待てよ。四角関係って誰のことだよ」

 ぎゅっと握りしめた拳からは血が滲みそうなくらいに青筋が入っている。



「鳥居っちだよ」

 
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