青いチェリーは熟れることを知らない①
チェリー、瑞貴へ初めて振る舞う手料理
「センパイ、少しキッチン借りてもいい?」
迷惑な隣人が立ち去ってから早二時間、買ってもらった服を整理し終えたちえりはベッドへ腰掛けてノートパソコンに向かう瑞貴へ問いかける。
「ん? どした?」
顔を上げた瑞貴は珈琲へ口を付けながらパチクリしている。
「なんか作っかなって(作ろうかなって)思って」
「もうそんな時間?」
部屋の電気は自動(オート)なため、"暗くなったから電気つける"は日課になっていないらしい。何気ないたったひとつの動作だが、それは熱中した彼の時間の感覚を思いのほか遅らせてしまっているようだ。
瑞貴がパソコンの端に表示されている時計を確認すると、時刻は十八時をまわったところだった。ここに至るまで、かなりのエネルギーを消費したからと言って、普通どおり夕食を口にするのは……と、夜は軽いもので済ませようと話していたのだった。
「俺がやるからいいよ。チェリー疲れてるだろ?」
パソコンをサイドテーブルに置いた瑞貴が立ち上がり、大きく伸びをした彼の腹部がちらりと見える。
「……っ!」
(ほ、ほっそっ!!)
思わずドキリとしたちえりの視線が自分のそれへと移る。
「う、動かねど(動かないと)……っ」
「ん?」
思わず呟いた言葉に話しかけられたと思った瑞貴が反応してしまう。
「ううんっ!? 瑞貴センパイは先にシャワーでもどうぞっ!
それにまだお腹すいてないべ(でしょ)? 私、カレーなら作れっから(作れるから)!! あとでゆっくり食べましょう?」
「……んだ(そう)?」
「うん! 入ってきてっ」
「ん、じゃあ頼むな?」
目を細め、口角を上げた瑞貴がちえりの頭をクシャッと撫でた。
「行ってらっしゃい!」
「ははっ! 行ってきます」
夢にまで見た瑞貴との会話。
彼の背を見送ったちえりは再びその会話のやりとりに学生時代の切ない記憶を辿る――。
――……真夏の太陽が照りつけるなか、受験勉強のため親友・真琴の家を目指して気だるげに歩く中学生の若葉ちえりがいる。
親が共働きな真琴の家は、やや休憩が多すぎてもそれを咎める目がないため、勉強の場所にはもってこいだったのだ。
『も゙~盆地ってなんでこんなに暑いんだべ……冬は冬で極寒なのにぃ~~』
将来の夢なんてそれほどしっかりしたものではなく、ただ"嫌でもやらなきゃいけない"受験勉強に彼女の頭脳は別なことを考えていた。
『休みの日も瑞貴センパイさ会えるなら受験生のままでいいや~なんてっ!』
急に足取りが軽やかになり、彼女の家のチャイムを鳴らしたところで更なる幸運が待ち受けていた。
――ピンポーン♪
『はーい』
すぐに返事があり、聞き覚えのある男性の声に胸が高鳴る。
(瑞貴センパイの声っ!!)
ぎゅっとトートバッグを握りしめ、美しい顔を見逃すまいと目を見開く。
ガチャッ
(き、きた――っ!!)
『……あれ? チェリー?』
『こ、こんにちは! 瑞貴センパイッ……?』
まさか自分の顔に驚いたのかとちえりの表情は強張り、暑さからくる以外の嫌な汗が体中から噴き出しそうになる。
『あ、ちえり来た?』
出迎えた王子の背後から顔を覗かせた親友に軽く舌打ちをしたくなる。しかし彼女に罪はないため、ぐっと堪えた。
『う、うん……来たよ~お邪魔していい?』
"もっちろん!"と、親指を立てて歓迎してくれる真琴。
早々にいつもの面子が揃ったわけだが、ひとりだけ浮かない顔をしている人物がいる。
『困ったな……』
呟いたのは瑞貴だった。
『え? なんで兄貴が困んの? さぁ入りたまえちえりくんっ!! 外は暑かろう!!』
兄の発言に首を傾げながらも、ちえりに入室を促す真琴に頷いたちえりは導かれるように瑞貴の横を通り過ぎようとする。
『俺、これから友達んとこ行く予定あって……』
『え……』
その言葉に思わず立ち止まってしまう。瑞貴も気まずそうに指先で頬をかき、それはまるで恋人同士の約束が違えてしまったときの空気にも少し似ていた。
『いいじゃん。行って来れば?』
兄が不在であろうとも、なんとも思っていない妹の態度はそっけない。
『そ、そっか……もう行くの?』
『ん……』
『…………』
あまりにも早い彼の退出に落胆が止まらない。いつも勉強している傍に彼がいたため、もちろん今日も……と高を括っていたの自分が悪いのだ。
『……い、行ってらっしゃい!』
『……うん、行ってきます……』
残念な気持ちが先行し、彼がなぜそんな暗い顔をしていたのか考える余裕もなかった。
しかし、相手を送り出すその言葉は他所の子であるちえりが瑞貴へ言える機会はそうそうなかったため、少しだけ嬉しかったが……やはり切なさが勝り、ほろ苦い記憶として残っていた。
だが、今日からはちょっと違う。
「これからは"行ってらっしゃい"が笑って言えるんだ……」
迷惑な隣人が立ち去ってから早二時間、買ってもらった服を整理し終えたちえりはベッドへ腰掛けてノートパソコンに向かう瑞貴へ問いかける。
「ん? どした?」
顔を上げた瑞貴は珈琲へ口を付けながらパチクリしている。
「なんか作っかなって(作ろうかなって)思って」
「もうそんな時間?」
部屋の電気は自動(オート)なため、"暗くなったから電気つける"は日課になっていないらしい。何気ないたったひとつの動作だが、それは熱中した彼の時間の感覚を思いのほか遅らせてしまっているようだ。
瑞貴がパソコンの端に表示されている時計を確認すると、時刻は十八時をまわったところだった。ここに至るまで、かなりのエネルギーを消費したからと言って、普通どおり夕食を口にするのは……と、夜は軽いもので済ませようと話していたのだった。
「俺がやるからいいよ。チェリー疲れてるだろ?」
パソコンをサイドテーブルに置いた瑞貴が立ち上がり、大きく伸びをした彼の腹部がちらりと見える。
「……っ!」
(ほ、ほっそっ!!)
思わずドキリとしたちえりの視線が自分のそれへと移る。
「う、動かねど(動かないと)……っ」
「ん?」
思わず呟いた言葉に話しかけられたと思った瑞貴が反応してしまう。
「ううんっ!? 瑞貴センパイは先にシャワーでもどうぞっ!
それにまだお腹すいてないべ(でしょ)? 私、カレーなら作れっから(作れるから)!! あとでゆっくり食べましょう?」
「……んだ(そう)?」
「うん! 入ってきてっ」
「ん、じゃあ頼むな?」
目を細め、口角を上げた瑞貴がちえりの頭をクシャッと撫でた。
「行ってらっしゃい!」
「ははっ! 行ってきます」
夢にまで見た瑞貴との会話。
彼の背を見送ったちえりは再びその会話のやりとりに学生時代の切ない記憶を辿る――。
――……真夏の太陽が照りつけるなか、受験勉強のため親友・真琴の家を目指して気だるげに歩く中学生の若葉ちえりがいる。
親が共働きな真琴の家は、やや休憩が多すぎてもそれを咎める目がないため、勉強の場所にはもってこいだったのだ。
『も゙~盆地ってなんでこんなに暑いんだべ……冬は冬で極寒なのにぃ~~』
将来の夢なんてそれほどしっかりしたものではなく、ただ"嫌でもやらなきゃいけない"受験勉強に彼女の頭脳は別なことを考えていた。
『休みの日も瑞貴センパイさ会えるなら受験生のままでいいや~なんてっ!』
急に足取りが軽やかになり、彼女の家のチャイムを鳴らしたところで更なる幸運が待ち受けていた。
――ピンポーン♪
『はーい』
すぐに返事があり、聞き覚えのある男性の声に胸が高鳴る。
(瑞貴センパイの声っ!!)
ぎゅっとトートバッグを握りしめ、美しい顔を見逃すまいと目を見開く。
ガチャッ
(き、きた――っ!!)
『……あれ? チェリー?』
『こ、こんにちは! 瑞貴センパイッ……?』
まさか自分の顔に驚いたのかとちえりの表情は強張り、暑さからくる以外の嫌な汗が体中から噴き出しそうになる。
『あ、ちえり来た?』
出迎えた王子の背後から顔を覗かせた親友に軽く舌打ちをしたくなる。しかし彼女に罪はないため、ぐっと堪えた。
『う、うん……来たよ~お邪魔していい?』
"もっちろん!"と、親指を立てて歓迎してくれる真琴。
早々にいつもの面子が揃ったわけだが、ひとりだけ浮かない顔をしている人物がいる。
『困ったな……』
呟いたのは瑞貴だった。
『え? なんで兄貴が困んの? さぁ入りたまえちえりくんっ!! 外は暑かろう!!』
兄の発言に首を傾げながらも、ちえりに入室を促す真琴に頷いたちえりは導かれるように瑞貴の横を通り過ぎようとする。
『俺、これから友達んとこ行く予定あって……』
『え……』
その言葉に思わず立ち止まってしまう。瑞貴も気まずそうに指先で頬をかき、それはまるで恋人同士の約束が違えてしまったときの空気にも少し似ていた。
『いいじゃん。行って来れば?』
兄が不在であろうとも、なんとも思っていない妹の態度はそっけない。
『そ、そっか……もう行くの?』
『ん……』
『…………』
あまりにも早い彼の退出に落胆が止まらない。いつも勉強している傍に彼がいたため、もちろん今日も……と高を括っていたの自分が悪いのだ。
『……い、行ってらっしゃい!』
『……うん、行ってきます……』
残念な気持ちが先行し、彼がなぜそんな暗い顔をしていたのか考える余裕もなかった。
しかし、相手を送り出すその言葉は他所の子であるちえりが瑞貴へ言える機会はそうそうなかったため、少しだけ嬉しかったが……やはり切なさが勝り、ほろ苦い記憶として残っていた。
だが、今日からはちょっと違う。
「これからは"行ってらっしゃい"が笑って言えるんだ……」