青いチェリーは熟れることを知らない①
暗雲、再び
そして四月――。
期待に胸を膨らませ、巣から飛び立ったばかりの……恐ろしいほどにピチピチした新入社員たちが入社してきて。
「あ、そういえば……鳥居さんは入社式に出席されてるんでしたね」
佐藤七海が思い出したように呟いた。
すでにプロジェクトチームへ参加していた優秀な鳥居は、このフロアでは結構な有名人になりつつあった。
仕事が出来るうえ、日本人離れした端正な顔立ちに隙のない完璧なスタイルで意外と硬派。そんな乙女の理想を凝縮したような彼に彼氏持ちの女性ですらお近づきになりたいと望むのは当然のことで、朝から姿が見えない鳥居に気が動転しているらしい女性陣がオフィスの隅で切ない溜息をもらしていた。
「あいつ社員だったんだ……?」
「そうなんですよ~! なので、本当の仕事始めは今日からみたいでなんです~」
「ふーん……」
(てっきり契約社員かと思ってたな……でも三浦さんのチームでプロジェクト参加って言ってたから只者じゃないとは思ってたけど……)
黒ペンを指先で弄びながら卓上カレンダーへ視線を落とす。
「もう四月かぁ……」
同時期に入ってきた鳥居がどんどん上へ上へと駆けあがっていく脇で、ちえりはまだコピーやファックス、簡単なプログラムのバグチェック程度しか任されていない。
「ほい、ちえり。これ午前中の分な。で、こっちが佐藤……これは吉川だな」
「……は、はいっ!!」
「はい~!」
「はい!」
いつものように優しい瑞貴がちえりたちのデスクへ資料を並べると、彼が動くたび爽やかなコロンの香りがあたりを包む。猫がその身をすり寄せるのは自分の匂いを付けるマーキングな行為だとしたら、ちえりはその逆かもしれない。
(こ、この腕に抱きつきたいっ!!
瑞貴センパイの匂いを私にっっ!!!)
ちえりの五感を刺激する彼の匂いはまさに猫にマタタビ状態で、緩んだ口元からは謎の液体が今にも零れてしまいそうだ。そして自分を抱きしめながらキャァキャァと騒いでいるうちにおかしな声が出てしまった。
「きゃはっ!」
「……で、バグ見つけたら俺に教えてな。デバックは俺がやるから……ってちえり?」
「……えっ!?」
(ぶはっ!! 私いま声に出してたっけっっ!?)
「はいっ、ただちにっっ」
「……? じゃあ研修は午後からってことでよろしく!」
「わかりましたっ」
彼のいうデバックとは、プログラムの欠陥(バグ)を修正することなのだが、それが仕様なのかどうかを見極めるため、手渡された資料と照らし合わせながら進めることが大前提なのだ。
口角をあげたまま小首をかしげる仕草も愛らしく、さらに昔から変わらない王子スマイルで優しく微笑む瑞貴は、ちえりの永遠の"白馬の王子様"ならぬ"白家の王子様"だ。
ちえりたちとは違って多忙な彼は他に自分のプロジェクトチームがあるため、一日のほとんどを別の席で過ごしている。
まだまだ未熟なちえりがデバックを手掛けることはまず有り得ない。やたらに修正してプログラムが起動しなくなる可能性もあり、それ以前に専門的な知識がない彼女はまったく以て別次元の話なのである。
「うーん……」
ちえりは早くも手元にある資料と睨めっこしながら低い唸り声をあげている。
プログラムが複雑になればもちろん資料も厚くなるのだが、勤務年数の長い吉川や佐藤が大半を受け持ってくれるため、ちえりはほんのわずかのデータと向き合っているにすぎない。
「たまに資料が間違ってる時もあるからさ、若葉ちゃんは判断難しかったら俺に聞いてね」
「あ、ありがとうございます」
難しい顔をしているちえりに吉川が有難い言葉をかけてくれる。
彼ならば簡単なデバックやプログラム作成も出来るらしく、そろそろプロジェクトチームへの参加も可能だろうと瑞貴が言っていたのを思い出す。
(そうなったら吉川さんも赤い紐から卒業かぁ。その時には皆でお祝いしてあげたいな……)
本人の努力次第で早期に紐の色が赤から青へ変わる事があると聞いていたが、彼の勤務年数ならば青でもおかしくない。つまりこの職場は本気で向上心がないといつまでも赤い紐である可能性が高く、居ずらくなってしまう反面、やる気のある者にはとことんやり甲斐のある職場であると言える。
そして一区切りしたちえりが"うーん"と伸びをした午前十一時半。
「もう少しでお昼ですね」
壁にある電波時計へ目を向けたちえり。すると、その下を見慣れた人物が毛を逆立てながら視界を横切ったのが見えた。
「あ……」
「どうかしました~?」
マイボトルに口をつけた佐藤が緊張感のない声で言葉を発する。
「ほらあそこ、あいつ入社式じゃないっけ?」
「ほんとだ。オリエンテーションやらなんかで結構な時間になるって聞いてたんだけどなー」
吉川も加わり、不思議そうに三人で鳥居の姿を目で追った。
やはり鳥居の上司にあたる三浦や長谷川も驚いているようで、彼の周りに少数の人だかりができる。そしてすぐに笑いが起こるが二言三言の会話が終了すると、大人な雰囲気の彼女らはあっという間に持ち場へと戻っていった。
(三浦さんも長谷川さんも"出来る女"って感じが全面に出てる……)
たった一度だけ、仕事以外での彼女らと偶然に出くわした歓迎会。
ふたりとも、職場でのイメージとさほど変わらなかったが、長谷川はとても気さくで、誰にでも好かれる女性だろうというのはすごく伝わってきた。あれから特に接点はないものの、毎日の挨拶はもちろん、長谷川はよく話しかけてくれるのだ。
そして、話しかけてくれない三浦が悪いわけでもない。そもそも彼女らはちえりの直属の上司ではないため、話す機会はほとんどないのだが……なんといっても三浦との接し方がよくわからない。
歓迎会の翌日たまたま通りかかった三浦へ照れながらも挨拶をしてみたが、一秒にも満たない視線の絡みののち、あっさり会話は終了してしまったのだ。
"お、おはようございます三浦さんっ! あの、昨日は……っ"
"……おはよう"
ただ一瞥しただけで横を通り過ぎた三浦だが、彼女の後ろを歩いていた長谷川がちえりに気づいた。
"お! 若葉っちおっはよー! ねーねー! 今度は桜田っち抜きで行こうよぉ!!"
"長谷川さん……おはようございます! ぜ、是非!!"
"むふふ! 今度はお姉さんが御馳走しちゃうぞーっ! 約束だかんねー!!"
(長谷川さんが特別なのかもしれないけど、三浦さんとは挨拶してもそこから話が盛り上がったりはしないんだよね……)
ただそれだけで人を判断してはいけないのはわかっている。
しかし、それから何度も同じようなことが続き……なんとなく好かれていないだろうことは薄々気づいていたちえりだった。
期待に胸を膨らませ、巣から飛び立ったばかりの……恐ろしいほどにピチピチした新入社員たちが入社してきて。
「あ、そういえば……鳥居さんは入社式に出席されてるんでしたね」
佐藤七海が思い出したように呟いた。
すでにプロジェクトチームへ参加していた優秀な鳥居は、このフロアでは結構な有名人になりつつあった。
仕事が出来るうえ、日本人離れした端正な顔立ちに隙のない完璧なスタイルで意外と硬派。そんな乙女の理想を凝縮したような彼に彼氏持ちの女性ですらお近づきになりたいと望むのは当然のことで、朝から姿が見えない鳥居に気が動転しているらしい女性陣がオフィスの隅で切ない溜息をもらしていた。
「あいつ社員だったんだ……?」
「そうなんですよ~! なので、本当の仕事始めは今日からみたいでなんです~」
「ふーん……」
(てっきり契約社員かと思ってたな……でも三浦さんのチームでプロジェクト参加って言ってたから只者じゃないとは思ってたけど……)
黒ペンを指先で弄びながら卓上カレンダーへ視線を落とす。
「もう四月かぁ……」
同時期に入ってきた鳥居がどんどん上へ上へと駆けあがっていく脇で、ちえりはまだコピーやファックス、簡単なプログラムのバグチェック程度しか任されていない。
「ほい、ちえり。これ午前中の分な。で、こっちが佐藤……これは吉川だな」
「……は、はいっ!!」
「はい~!」
「はい!」
いつものように優しい瑞貴がちえりたちのデスクへ資料を並べると、彼が動くたび爽やかなコロンの香りがあたりを包む。猫がその身をすり寄せるのは自分の匂いを付けるマーキングな行為だとしたら、ちえりはその逆かもしれない。
(こ、この腕に抱きつきたいっ!!
瑞貴センパイの匂いを私にっっ!!!)
ちえりの五感を刺激する彼の匂いはまさに猫にマタタビ状態で、緩んだ口元からは謎の液体が今にも零れてしまいそうだ。そして自分を抱きしめながらキャァキャァと騒いでいるうちにおかしな声が出てしまった。
「きゃはっ!」
「……で、バグ見つけたら俺に教えてな。デバックは俺がやるから……ってちえり?」
「……えっ!?」
(ぶはっ!! 私いま声に出してたっけっっ!?)
「はいっ、ただちにっっ」
「……? じゃあ研修は午後からってことでよろしく!」
「わかりましたっ」
彼のいうデバックとは、プログラムの欠陥(バグ)を修正することなのだが、それが仕様なのかどうかを見極めるため、手渡された資料と照らし合わせながら進めることが大前提なのだ。
口角をあげたまま小首をかしげる仕草も愛らしく、さらに昔から変わらない王子スマイルで優しく微笑む瑞貴は、ちえりの永遠の"白馬の王子様"ならぬ"白家の王子様"だ。
ちえりたちとは違って多忙な彼は他に自分のプロジェクトチームがあるため、一日のほとんどを別の席で過ごしている。
まだまだ未熟なちえりがデバックを手掛けることはまず有り得ない。やたらに修正してプログラムが起動しなくなる可能性もあり、それ以前に専門的な知識がない彼女はまったく以て別次元の話なのである。
「うーん……」
ちえりは早くも手元にある資料と睨めっこしながら低い唸り声をあげている。
プログラムが複雑になればもちろん資料も厚くなるのだが、勤務年数の長い吉川や佐藤が大半を受け持ってくれるため、ちえりはほんのわずかのデータと向き合っているにすぎない。
「たまに資料が間違ってる時もあるからさ、若葉ちゃんは判断難しかったら俺に聞いてね」
「あ、ありがとうございます」
難しい顔をしているちえりに吉川が有難い言葉をかけてくれる。
彼ならば簡単なデバックやプログラム作成も出来るらしく、そろそろプロジェクトチームへの参加も可能だろうと瑞貴が言っていたのを思い出す。
(そうなったら吉川さんも赤い紐から卒業かぁ。その時には皆でお祝いしてあげたいな……)
本人の努力次第で早期に紐の色が赤から青へ変わる事があると聞いていたが、彼の勤務年数ならば青でもおかしくない。つまりこの職場は本気で向上心がないといつまでも赤い紐である可能性が高く、居ずらくなってしまう反面、やる気のある者にはとことんやり甲斐のある職場であると言える。
そして一区切りしたちえりが"うーん"と伸びをした午前十一時半。
「もう少しでお昼ですね」
壁にある電波時計へ目を向けたちえり。すると、その下を見慣れた人物が毛を逆立てながら視界を横切ったのが見えた。
「あ……」
「どうかしました~?」
マイボトルに口をつけた佐藤が緊張感のない声で言葉を発する。
「ほらあそこ、あいつ入社式じゃないっけ?」
「ほんとだ。オリエンテーションやらなんかで結構な時間になるって聞いてたんだけどなー」
吉川も加わり、不思議そうに三人で鳥居の姿を目で追った。
やはり鳥居の上司にあたる三浦や長谷川も驚いているようで、彼の周りに少数の人だかりができる。そしてすぐに笑いが起こるが二言三言の会話が終了すると、大人な雰囲気の彼女らはあっという間に持ち場へと戻っていった。
(三浦さんも長谷川さんも"出来る女"って感じが全面に出てる……)
たった一度だけ、仕事以外での彼女らと偶然に出くわした歓迎会。
ふたりとも、職場でのイメージとさほど変わらなかったが、長谷川はとても気さくで、誰にでも好かれる女性だろうというのはすごく伝わってきた。あれから特に接点はないものの、毎日の挨拶はもちろん、長谷川はよく話しかけてくれるのだ。
そして、話しかけてくれない三浦が悪いわけでもない。そもそも彼女らはちえりの直属の上司ではないため、話す機会はほとんどないのだが……なんといっても三浦との接し方がよくわからない。
歓迎会の翌日たまたま通りかかった三浦へ照れながらも挨拶をしてみたが、一秒にも満たない視線の絡みののち、あっさり会話は終了してしまったのだ。
"お、おはようございます三浦さんっ! あの、昨日は……っ"
"……おはよう"
ただ一瞥しただけで横を通り過ぎた三浦だが、彼女の後ろを歩いていた長谷川がちえりに気づいた。
"お! 若葉っちおっはよー! ねーねー! 今度は桜田っち抜きで行こうよぉ!!"
"長谷川さん……おはようございます! ぜ、是非!!"
"むふふ! 今度はお姉さんが御馳走しちゃうぞーっ! 約束だかんねー!!"
(長谷川さんが特別なのかもしれないけど、三浦さんとは挨拶してもそこから話が盛り上がったりはしないんだよね……)
ただそれだけで人を判断してはいけないのはわかっている。
しかし、それから何度も同じようなことが続き……なんとなく好かれていないだろうことは薄々気づいていたちえりだった。