青いチェリーは熟れることを知らない①
冷たい雨
「はぁ……」
(また瑞貴センパイの気持ちも考えずに口出ししちゃった……)
"……っなん……で、ちえり……"
苦しそうに眉をひそめた瑞貴の顔を思い出すとキリキリと胸が痛む。
(……初めて見た、あんなセンパイ……。……こんなふうに、泣いて……?)
不意に頬へと流れた一筋の雫。
よくよく思い出してみると瑞貴は泣いていなかった気がする。我に返ったちえりは自身の頬へ手をあてがうと……
「……あれ?」
少女漫画のヒロインのようにホロリと泣けてくる"か弱い"乙女ではない彼女はギョッとして立ち止まった。
「雨!?」
「……結構前から降り始めてたけど今頃かよ……」
「う、うそっ!!」
『鈍感にも程があるぞ』と言いたげな鳥頭の冷たい視線を避けられるほどに運動神経の良くないちえりは、そのすべてを顔面で受け止めてしまった。
「そういう目で見ないでよっ! 顔が金縛りにあうじゃない!!」
「……どういう原理だよ。だったら顔だけそこに置いていけ。
……ったく……ほら、コンビニ寄るより走ったほうが早い。いくぞ」
色気のないトークに苛立ったらしい鳥頭は、音を立て始めた雨に舌打ちしながらも、しっかりとちえりの腕を掴んで走り出した。
「え? え? ぎゃあっ!!」
しっとりと濡れた彼の髪は調子を狂わせた鶏の鶏冠(とさか)のように若干勢いを失っているように見える。あまり目にしないその光景は意外と新鮮で『そのままでもいいんじゃない……?』と呑気なことを口走りそうになったちえりは、若い男の俊足に足がもつれてしまいそうになりながら可愛げもない声でヒィヒィと後方で叫んだ。
社宅のエントランスに到着した頃にはすっかりびしょ濡れになってしまったふたり。
「パンプスも濡れちゃった……」
所々に水溜まりを作りながら一階のエントランスを歩くと、外はすでに傘さえ無意味なほどの土砂降りとなっていた。
幸い一定の室温に保たれたここは自動販売機もあれば、ゆっくり座っていられるソファやテーブルも備え付けてある。瑞貴からカードキーを受け取っていないちえりは部屋に入ることが出来ないため、彼が戻るまでこの場所で時間を潰すしかない。
「…………」
(……このまま座ったらソファが濡れちゃうよね。スーツ絞ったら皺になっちゃうかな?)
瞬きしながらジッとソファの傍に佇むちえりに鳥頭の声が掛かる。
「なにボサッとしてんだよ」
ちえりの行動が理解できないとばかりに鳥頭が濡れた髪をうっとおしそうに掻き上げる。
「ん? 瑞貴センパイが帰ってくるまで私はここで待つよ」
「……ふーん。じゃあな」
「……?」
(……なによ……その意味深な"ふーん")
エレベーターへと消えていった鳥頭に何か言いたい衝動にかられたが、とりあえずスーツの上下とも濡れてしまったので脱いだ上着をテーブルの上に置かせてもらう。
「ちょっと肌寒いな……」
濡れた髪が頬や首に纏わりつき、ブラウスを容赦なく濡らして体温を奪っていく。ちえりは二の腕部分を手のひらで擦りながら自販機でホットコーヒーを購入する。そして一息ついていると、入口から入ってきた社員たちにみすぼらしい姿を見せぬよう背を向けながらなんとかやり過ごす。
「なにやってるんだろって思われてるんだろうな……」
そしてまたガラス扉が開く音がして、背を向けようとすると――
――コツコツ、コツン……
「……?」
ちえりの背後でピタリと止まった足音。
(……う、なんか見られてる気がする……)
恐る恐る振り返るとそこにいたのは……
「下着透けてんぞ」
「……げっ!!」
まだ着替えてもいない濡れたままの鳥頭が仏頂面でタオルを手に立っていた。
反撃する間もなくパサッと頭から柔らかなタオルをかけられ、"ありが……"と礼を言おうとすると。
「どこに行くの?」
そのままエントランスを抜けて土砂降りの中へ飛び出そうとする彼へ声をかける。
「コンビニ」
「……傘も持たずに?」
と、言った頃にはすでに鳥頭の姿はない。
(お腹でもすいてるのかな?)
と勝手に想像しながら有難くタオルを使わせてもらうことにする。
「これ柔軟剤の匂いだべか……」
嗅ぎなれたものと違うと余計匂いがはっきりわかる。
そして彼が言っていた"待ってる女"の人物像が少し見えた気がする。ほのかに甘く、優しい香りがするこの柔軟剤を選ぶのは、ほんわか癒し系の女性だろうとちえりの女歴二十九年の無駄な知識が教えてくれた。
「あ、一応スマホ見とかないと……」
着信、メール共に無し。
(まだセンパイと別れて二十分くらいだもん……連絡なんてあるわけないよね)
ションボリを肩を落としていると、再びガラス扉が開いたので背を向けてスマホをバッグにしまう。そしてまたも目の前で止まった足音にちえりは振り返った。
「…………」
「…………」
狼のようなクールな瞳がこちらを見下ろしている。
見つめあったまま沈黙の数秒が過ぎると……
「お前風邪ひくぞ」
「……平気。私結構頑丈だから」
「知ってるか? チェリーは雨にあたると割れるんだぜ」
「割れるって……な、なんの話よ……」
「さくらんぼ」
「…………」
「…………」
「……あんたのそれジョークのつもり?」
「まだ木曜だ。熱でも出されて休まれると迷惑なんだよ。マジでしょーがねぇから部屋にいれてやる」
「……っ!?」
(や、優しいのか嫌味なのか……っ……!!)
結局そう言われては彼について行くしかない。
そしてここでひとつの不安が浮き彫りになる。
「ね、ねぇ……待ってる彼女がいるんでしょ? お邪魔して大丈夫なの?」
「好かれるか嫌われるかはお前次第だ」
「あ、そっか……わ、わかった! 第一印象が肝心よね……」
と、気合を入れてエレベーターを降りたのは瑞貴と同じ二十八階だった。
(あれ……?)
そして振り向きもせず歩き続ける彼が立ち止まったのは――
「うそ……隣り、だったの?」
「……言っとくけど狙ってここに入ったわけじゃねぇから。たまたま入居者が出てって空いてただけだ」
「……ふーん……」
(まぁ偶然ってそんなものだよね……)
(また瑞貴センパイの気持ちも考えずに口出ししちゃった……)
"……っなん……で、ちえり……"
苦しそうに眉をひそめた瑞貴の顔を思い出すとキリキリと胸が痛む。
(……初めて見た、あんなセンパイ……。……こんなふうに、泣いて……?)
不意に頬へと流れた一筋の雫。
よくよく思い出してみると瑞貴は泣いていなかった気がする。我に返ったちえりは自身の頬へ手をあてがうと……
「……あれ?」
少女漫画のヒロインのようにホロリと泣けてくる"か弱い"乙女ではない彼女はギョッとして立ち止まった。
「雨!?」
「……結構前から降り始めてたけど今頃かよ……」
「う、うそっ!!」
『鈍感にも程があるぞ』と言いたげな鳥頭の冷たい視線を避けられるほどに運動神経の良くないちえりは、そのすべてを顔面で受け止めてしまった。
「そういう目で見ないでよっ! 顔が金縛りにあうじゃない!!」
「……どういう原理だよ。だったら顔だけそこに置いていけ。
……ったく……ほら、コンビニ寄るより走ったほうが早い。いくぞ」
色気のないトークに苛立ったらしい鳥頭は、音を立て始めた雨に舌打ちしながらも、しっかりとちえりの腕を掴んで走り出した。
「え? え? ぎゃあっ!!」
しっとりと濡れた彼の髪は調子を狂わせた鶏の鶏冠(とさか)のように若干勢いを失っているように見える。あまり目にしないその光景は意外と新鮮で『そのままでもいいんじゃない……?』と呑気なことを口走りそうになったちえりは、若い男の俊足に足がもつれてしまいそうになりながら可愛げもない声でヒィヒィと後方で叫んだ。
社宅のエントランスに到着した頃にはすっかりびしょ濡れになってしまったふたり。
「パンプスも濡れちゃった……」
所々に水溜まりを作りながら一階のエントランスを歩くと、外はすでに傘さえ無意味なほどの土砂降りとなっていた。
幸い一定の室温に保たれたここは自動販売機もあれば、ゆっくり座っていられるソファやテーブルも備え付けてある。瑞貴からカードキーを受け取っていないちえりは部屋に入ることが出来ないため、彼が戻るまでこの場所で時間を潰すしかない。
「…………」
(……このまま座ったらソファが濡れちゃうよね。スーツ絞ったら皺になっちゃうかな?)
瞬きしながらジッとソファの傍に佇むちえりに鳥頭の声が掛かる。
「なにボサッとしてんだよ」
ちえりの行動が理解できないとばかりに鳥頭が濡れた髪をうっとおしそうに掻き上げる。
「ん? 瑞貴センパイが帰ってくるまで私はここで待つよ」
「……ふーん。じゃあな」
「……?」
(……なによ……その意味深な"ふーん")
エレベーターへと消えていった鳥頭に何か言いたい衝動にかられたが、とりあえずスーツの上下とも濡れてしまったので脱いだ上着をテーブルの上に置かせてもらう。
「ちょっと肌寒いな……」
濡れた髪が頬や首に纏わりつき、ブラウスを容赦なく濡らして体温を奪っていく。ちえりは二の腕部分を手のひらで擦りながら自販機でホットコーヒーを購入する。そして一息ついていると、入口から入ってきた社員たちにみすぼらしい姿を見せぬよう背を向けながらなんとかやり過ごす。
「なにやってるんだろって思われてるんだろうな……」
そしてまたガラス扉が開く音がして、背を向けようとすると――
――コツコツ、コツン……
「……?」
ちえりの背後でピタリと止まった足音。
(……う、なんか見られてる気がする……)
恐る恐る振り返るとそこにいたのは……
「下着透けてんぞ」
「……げっ!!」
まだ着替えてもいない濡れたままの鳥頭が仏頂面でタオルを手に立っていた。
反撃する間もなくパサッと頭から柔らかなタオルをかけられ、"ありが……"と礼を言おうとすると。
「どこに行くの?」
そのままエントランスを抜けて土砂降りの中へ飛び出そうとする彼へ声をかける。
「コンビニ」
「……傘も持たずに?」
と、言った頃にはすでに鳥頭の姿はない。
(お腹でもすいてるのかな?)
と勝手に想像しながら有難くタオルを使わせてもらうことにする。
「これ柔軟剤の匂いだべか……」
嗅ぎなれたものと違うと余計匂いがはっきりわかる。
そして彼が言っていた"待ってる女"の人物像が少し見えた気がする。ほのかに甘く、優しい香りがするこの柔軟剤を選ぶのは、ほんわか癒し系の女性だろうとちえりの女歴二十九年の無駄な知識が教えてくれた。
「あ、一応スマホ見とかないと……」
着信、メール共に無し。
(まだセンパイと別れて二十分くらいだもん……連絡なんてあるわけないよね)
ションボリを肩を落としていると、再びガラス扉が開いたので背を向けてスマホをバッグにしまう。そしてまたも目の前で止まった足音にちえりは振り返った。
「…………」
「…………」
狼のようなクールな瞳がこちらを見下ろしている。
見つめあったまま沈黙の数秒が過ぎると……
「お前風邪ひくぞ」
「……平気。私結構頑丈だから」
「知ってるか? チェリーは雨にあたると割れるんだぜ」
「割れるって……な、なんの話よ……」
「さくらんぼ」
「…………」
「…………」
「……あんたのそれジョークのつもり?」
「まだ木曜だ。熱でも出されて休まれると迷惑なんだよ。マジでしょーがねぇから部屋にいれてやる」
「……っ!?」
(や、優しいのか嫌味なのか……っ……!!)
結局そう言われては彼について行くしかない。
そしてここでひとつの不安が浮き彫りになる。
「ね、ねぇ……待ってる彼女がいるんでしょ? お邪魔して大丈夫なの?」
「好かれるか嫌われるかはお前次第だ」
「あ、そっか……わ、わかった! 第一印象が肝心よね……」
と、気合を入れてエレベーターを降りたのは瑞貴と同じ二十八階だった。
(あれ……?)
そして振り向きもせず歩き続ける彼が立ち止まったのは――
「うそ……隣り、だったの?」
「……言っとくけど狙ってここに入ったわけじゃねぇから。たまたま入居者が出てって空いてただけだ」
「……ふーん……」
(まぁ偶然ってそんなものだよね……)