青いチェリーは熟れることを知らない①
「ほら、入れよ」
「う、うんっ」
「お邪魔します……」と入ろうして。パンプスを脱いで床へ足を付ける前にハッと動きを止めた。
「……ごめん、私足濡れてて……」
「別に構わねぇけど。俺もだし」
「あ、そう? じゃあお邪魔します」
「……容赦ねぇなお前……」
あっさりベタベタと歩き回るちえりに鳥頭が少しムッとした表情を浮かべる。
「あ、ついでに言うけど足臭かったらごめん。雨で蒸れたかも」
「完全に女捨ててるよな」
「……失礼ね……捨てかけてるだけだから」
同じ二十八階だけあって間取りもまったく同じように作られているようだった。
一応家主の鳥頭の後ろをついてあるくと、すぐにリビングのドアが開かれた。
(よし! 第一印象が肝心だべっ!!)
できるだけ相手の気を悪くさせないよう、生乾きの顔に笑顔を貼りつける。
「夜分遅くすみません、お邪魔しま……」
――ワンッ!
「……はい、こんばんワン……? ……ワン???」
ハッハッハッと犬特融の可愛い息遣いが足元をくすぐる。
「……っ!?」
愛想を崩して視線を下げた先には、グレーの愛くるしいハスキー犬の子犬が尻尾をぶんぶん振り回しながらこちらを見上げている。
「わぁっ! わぁっ!! ハスキーだ! かっわいいっ!!」
無類の犬好きなちえりは濡れたバッグを手放して子犬に飛びついた。
温かな舌が顔を舐めまわし、愛のある歓迎を心行くまで楽しむ。
「きゃっなんて可愛い子なのっ!! って……ハッ!! 彼女さんに挨拶忘れてたっ!!」
慌ててキョロキョロあたりを見回すが、わんこ一匹、自分を含めた人間がふたり。他には誰も見当たらず、まさか廊下ですれ違った? と背後を振り返る。
「俺の女はこいつ」
「……へ?」
パッとちえりからハスキーの子を奪った鳥頭。グレーの毛色や瞳が彼ととてもそっくりで、狼の血を色濃く受け継いだ犬種特融の凛々しさは子犬ながらも大したものだと感心させられる。
「俺のチェリーは結構な人見知りでな。こいつがお前を受け入れなかったら追い出してるところだった」
「なっ……なによ急にっ!! 俺のチェリーってっっ!!」
ダダダッと壁際に後ずさるちえり。
いきなり身の危険を感じたせいか、置いてあるバッグを手に回れ右をしようとしている。
「勘違いすんな。今の"チェリー"は犬の名前だ」
「……あ、チェリーちゃんっていうの……?」
「そ。しかも俺はチェリーサンと出会う前にこいつに"チェリー"って名づけてたんだから真似じゃねぇぞ」
「ややこしいわね……」
ひとつの会話に二度も自分の名前が出てくると、会話の最中でも自分はどちらなのかと考えてしまう。
「わかったらさっさと風呂入ってこい。お前の足が臭い」
「……っ!? あんただって絶対臭いから!!」
ちえりは真っ赤になりながらバスルームへ一目散に向かった。
(……でもちょっと感謝しなきゃ……)
会社ではほとんど面識のない彼。いくら顔見知りだからと言って、ここまでしてくれる人を悪く言っていたことに反省しなくてはならないという気持ちがほんの少し芽生える。
「初対面は最悪だったけど……これがアイツの地、なのかな」
なるべく濡れたものが広がらぬ様、脱いだスーツや下着は足元にまとめる。そしてバスルームの扉を開くと、温かな湯気が体にまとわりつき、湯船に熱い湯が張られていることに気づく。
(自分だって濡れたままなのに私を優先させてくれたんだ……足が臭いとか言われたくらいで怒らなくてもよかったべか……)
謝らなくてはいけないような気がしながらも、どこか素直になれずにいるのは鳥頭に対して少なからず反抗心があるからかもしれない。しかし、鳥頭が風呂待ちであるならなおさら、いつまでも棒立ちしているわけにもいかず。ちえりは泡を立てて全身を洗い、念のため足回りを重点的に洗い流す。
そして有難く湯船に浸からせてもらい、すっかり温まった体でバスルームを出る。
「あ……」
脱衣所にはバスタオルと黒く大きめのシャツとスウェットが置かれており、濡れたスーツ一式と下着が無くなっていることに気づく。
「……っんーんーんーー!?」
(スーツはともかくっ! 下着がないっっ!!)
――バタン! バタバタバタ!!
「あ、あのっ……私の着替え……!」
「あぁ、スーツ置いてけよ。クリーニングに出しておいてやる」
彼が顎で示した先を視線で追うと、ハンガーに掛けられた悲しそうなスーツと下着が、まるで部屋のオブジェのように晒されているのが見えた。
「ぎゃぁっ!!」
ちえりは持参したバスタオルを下着の上から掛けると、とりあえず姿を隠したそれが安堵のため息をついた気がする。
「……濡れたもん重ねると乾かないぞ?」
まるで女性の下着など気にもならないと言った様子で、ソファで"チェリー"とくつろいでいた鳥頭が立ち上がり、コンビニの袋と子犬のチェリーを手渡してきた。
「最悪泊まるなら、それくらい必要だろ」
「……え?」
言われて小さな袋を覗き込むと歯ブラシセットが入っていた。
(……もしかしてさっきこれ買いに行ってくれたの?)
「……ご、ごめっ……」
理解したと同時に振り返るが――
「ってもういないし……っ!」
もしかしたら彼は"見返りを期待していない親切"な善人なのかもしれない。
そんな考えが沸々と沸き起こると……
――ワンワンッ!
まるで"そうだよ!"とばかりに尾を振った"チェリー"の頭をよしよしと撫でる。
「うん……お前のご主人、本当はいい人なのかもしれないね……」
すでに何から何までお世話になっていながらも、ここで遠慮したら相手に失礼だと、お言葉に甘えて歯磨きをしながらスマホを確認する。
「……ん?」
「ぎゃっっ!!」
一瞬の間を置いてギョッとしたちえりは慌ててとある人物へ電話をかけたのだった――。
「う、うんっ」
「お邪魔します……」と入ろうして。パンプスを脱いで床へ足を付ける前にハッと動きを止めた。
「……ごめん、私足濡れてて……」
「別に構わねぇけど。俺もだし」
「あ、そう? じゃあお邪魔します」
「……容赦ねぇなお前……」
あっさりベタベタと歩き回るちえりに鳥頭が少しムッとした表情を浮かべる。
「あ、ついでに言うけど足臭かったらごめん。雨で蒸れたかも」
「完全に女捨ててるよな」
「……失礼ね……捨てかけてるだけだから」
同じ二十八階だけあって間取りもまったく同じように作られているようだった。
一応家主の鳥頭の後ろをついてあるくと、すぐにリビングのドアが開かれた。
(よし! 第一印象が肝心だべっ!!)
できるだけ相手の気を悪くさせないよう、生乾きの顔に笑顔を貼りつける。
「夜分遅くすみません、お邪魔しま……」
――ワンッ!
「……はい、こんばんワン……? ……ワン???」
ハッハッハッと犬特融の可愛い息遣いが足元をくすぐる。
「……っ!?」
愛想を崩して視線を下げた先には、グレーの愛くるしいハスキー犬の子犬が尻尾をぶんぶん振り回しながらこちらを見上げている。
「わぁっ! わぁっ!! ハスキーだ! かっわいいっ!!」
無類の犬好きなちえりは濡れたバッグを手放して子犬に飛びついた。
温かな舌が顔を舐めまわし、愛のある歓迎を心行くまで楽しむ。
「きゃっなんて可愛い子なのっ!! って……ハッ!! 彼女さんに挨拶忘れてたっ!!」
慌ててキョロキョロあたりを見回すが、わんこ一匹、自分を含めた人間がふたり。他には誰も見当たらず、まさか廊下ですれ違った? と背後を振り返る。
「俺の女はこいつ」
「……へ?」
パッとちえりからハスキーの子を奪った鳥頭。グレーの毛色や瞳が彼ととてもそっくりで、狼の血を色濃く受け継いだ犬種特融の凛々しさは子犬ながらも大したものだと感心させられる。
「俺のチェリーは結構な人見知りでな。こいつがお前を受け入れなかったら追い出してるところだった」
「なっ……なによ急にっ!! 俺のチェリーってっっ!!」
ダダダッと壁際に後ずさるちえり。
いきなり身の危険を感じたせいか、置いてあるバッグを手に回れ右をしようとしている。
「勘違いすんな。今の"チェリー"は犬の名前だ」
「……あ、チェリーちゃんっていうの……?」
「そ。しかも俺はチェリーサンと出会う前にこいつに"チェリー"って名づけてたんだから真似じゃねぇぞ」
「ややこしいわね……」
ひとつの会話に二度も自分の名前が出てくると、会話の最中でも自分はどちらなのかと考えてしまう。
「わかったらさっさと風呂入ってこい。お前の足が臭い」
「……っ!? あんただって絶対臭いから!!」
ちえりは真っ赤になりながらバスルームへ一目散に向かった。
(……でもちょっと感謝しなきゃ……)
会社ではほとんど面識のない彼。いくら顔見知りだからと言って、ここまでしてくれる人を悪く言っていたことに反省しなくてはならないという気持ちがほんの少し芽生える。
「初対面は最悪だったけど……これがアイツの地、なのかな」
なるべく濡れたものが広がらぬ様、脱いだスーツや下着は足元にまとめる。そしてバスルームの扉を開くと、温かな湯気が体にまとわりつき、湯船に熱い湯が張られていることに気づく。
(自分だって濡れたままなのに私を優先させてくれたんだ……足が臭いとか言われたくらいで怒らなくてもよかったべか……)
謝らなくてはいけないような気がしながらも、どこか素直になれずにいるのは鳥頭に対して少なからず反抗心があるからかもしれない。しかし、鳥頭が風呂待ちであるならなおさら、いつまでも棒立ちしているわけにもいかず。ちえりは泡を立てて全身を洗い、念のため足回りを重点的に洗い流す。
そして有難く湯船に浸からせてもらい、すっかり温まった体でバスルームを出る。
「あ……」
脱衣所にはバスタオルと黒く大きめのシャツとスウェットが置かれており、濡れたスーツ一式と下着が無くなっていることに気づく。
「……っんーんーんーー!?」
(スーツはともかくっ! 下着がないっっ!!)
――バタン! バタバタバタ!!
「あ、あのっ……私の着替え……!」
「あぁ、スーツ置いてけよ。クリーニングに出しておいてやる」
彼が顎で示した先を視線で追うと、ハンガーに掛けられた悲しそうなスーツと下着が、まるで部屋のオブジェのように晒されているのが見えた。
「ぎゃぁっ!!」
ちえりは持参したバスタオルを下着の上から掛けると、とりあえず姿を隠したそれが安堵のため息をついた気がする。
「……濡れたもん重ねると乾かないぞ?」
まるで女性の下着など気にもならないと言った様子で、ソファで"チェリー"とくつろいでいた鳥頭が立ち上がり、コンビニの袋と子犬のチェリーを手渡してきた。
「最悪泊まるなら、それくらい必要だろ」
「……え?」
言われて小さな袋を覗き込むと歯ブラシセットが入っていた。
(……もしかしてさっきこれ買いに行ってくれたの?)
「……ご、ごめっ……」
理解したと同時に振り返るが――
「ってもういないし……っ!」
もしかしたら彼は"見返りを期待していない親切"な善人なのかもしれない。
そんな考えが沸々と沸き起こると……
――ワンワンッ!
まるで"そうだよ!"とばかりに尾を振った"チェリー"の頭をよしよしと撫でる。
「うん……お前のご主人、本当はいい人なのかもしれないね……」
すでに何から何までお世話になっていながらも、ここで遠慮したら相手に失礼だと、お言葉に甘えて歯磨きをしながらスマホを確認する。
「……ん?」
「ぎゃっっ!!」
一瞬の間を置いてギョッとしたちえりは慌ててとある人物へ電話をかけたのだった――。