青いチェリーは熟れることを知らない①
無かった選択肢と穴の開いた船
丸一日面倒みてくれた鳥居を誘うことを吉川は嫌がっていたが、断る勇気もないらしい彼は結局いつもの観葉植物の前の席をとって待っていた。肘をつき、不貞腐れたような座り方に三人はイラっとしたが、仕方なく礼を言って席につく。
ちえりが人数分の水を用意し、他愛もない話をしながらそわそわと瑞貴を待った。
(夕食は何がいいべ……あ、冷蔵庫に入ってる食材覚えてないや。
んだっ(そうだ)! 瑞貴センパイに食べたいもの聞いて、買い物に寄って帰えっぺさ!)
グラスを滑る雫を見つめながら、一日ぶりとなる瑞貴との楽しい夕食を思い浮かべる。
(ご飯終わったらレンタルしてきた残りのDVD観て……
あ、でも……センパイ疲れてるべから早く寝かせてあげないと……)
瑞貴のことを考えると自ずと何を優先すべきかわかるようになってきた気がする。
組織のなかで生きているからだろうか? それとも、年相応の考えができるようになっただけか……。
いずれにせよ彼が大事なのだからそれで良いのだとちえりは思い込んでいた――。
「あ! 来ましたよっ!! こっちこっち~! 桜田さ~ん……」
「っ!」
(なんて出迎えようっ……おかえりなさい? ううん、先に謝らなくちゃ……)
色々と考えていたちえりの意識を若干高い佐藤の声が現実に引き戻す。
彼女の語尾が脱力系に終わっているのが若干気になるが、”百聞は一見にしかず”という言葉通り、そこにいるはずの大好きな彼の姿を視界に捉えた。
「……お疲れ様、です……」
ちえりが候補にあげていた中に”お疲れ様”の選択肢はなかったが、そう言わざるを得ない状況がそこにはあった。
瑞貴が帰ってきたことでようやく元通りになると思っていた日常がガラガラと音を立てて崩れていく。
「え、えっと、……あれって三浦さんですよね……?」
ちえりと瑞貴の仲を疑っていた佐藤は、その光景と自分の目を疑うように、しきりに瞬きを繰り返している。それはちえりも同じだった。目だけではなく耳までもがおかしくなったのだと思い込みたい。この場から立ち去りたい気分でいっぱいなのに体が鉛のように重い。
「……う、ん……」
目の前で立ち止まったのは瑞貴の腕に寄り添うように現れた三浦で、瑞貴も嫌がることなく仲睦まじい距離を一定に保っている。
「――それでねぇ、瑞貴ったら凄いのよ? 破損したデータの修復なんて一番早くて――……」
「さ、さすがですね~! 桜田さん!」
「このあと報告書を提出しないといけないのに私を気遣って”俺がやる”って言ってくれたの。瑞貴ったら優しいでしょ?」
「へ、へぇー! やっぱり桜田さんは優しいですね~!!」
気を使った佐藤だけが愛想笑いで話を繋いでくれているが、肝心の瑞貴は相槌もなく無表情を貫いている。
「…………」
(おかえりなさい……、
ごめんなさい……、
夕食、なにが食べたいですか……?)
三浦のトークが軽快に弾むなか、瑞貴へ伝えたい言葉が頭と心を何度も行き来する。
瑞貴への想いが小さな勇気を与えてくれたが、顔を上げたちえりを三浦のきつい視線がそれを制した。
「…………」
「……っ!」
言葉と食事の両方を飲み込むと、ありえないスピードでお腹がいっぱいになることをちえりは今日生まれて初めて知った。いや、正しくは食欲が失せてしまったと言うべきだが、風邪を引いても腹の減るちえりからすればこれは大ごとかもしれない。
「……腹減ってたんじゃなかったのか? 全然減ってねーけど」
ちえりの左隣に座った鳥居が、完食しかけの親子丼を口へ運びながら小声で話しかけてくる。
「う、うん……」
すると間髪入れず、向かい側に座っていた無表情の瑞貴がようやく笑みを浮かべ口を開いた。
「どうした? 珍しいな、ちえりが食欲ないなんて」
「……っううん……そんなこと、ないよ……?」
(……だめ、また心配かけちゃう……
私ってなんでこんなに自分勝手なんだろ。散々心配かけたくせに傷ついて、これじゃあ瑞貴センパイに迷惑かかっちゃう……)
「柄にもなく減量中みたいですよ」
「え?」
「へ……?」
まさかの鳥居の言葉に瑞貴とちえりの目が丸くなる。
(あ、もしかして……)
しかしその言葉は自分を気遣っての助け船だとわかると――
「そ、そうなのっ……! 実はいまダイエット中で……っ!」
例えすぐに沈む船だとしても、”優しい瑞貴が大波を起こすはずない、きっと優しく港に招いてくれる”と信じて鳥居の船に飛び乗ることにした。
(こんなダイエット方法……やだな……
恋する乙女は綺麗になるっていうけど、やつれるのとは違うはずなのに……)
そのまま苦笑いで乗り切ろうと試みるが、ちえりの乗った船にはどうやら船底に穴が開いていたらしい。
「そうじゃないだろ? ”宿泊先”の飯が合わなくて気分が優れないだけだろ?」
「…………」
「……っそんなこと……」
何故か一瞬、瑞貴と鳥居が睨み合っているような気がしたちえりは反論が遅れてしまった。
「俺もそうだったよ。ここ何ヶ月か毎日美味い飯を口にしてたからかな? 昨日から気分が悪くて仕方ないんだ」
「……っ! ごめんなさい気が回らなくてっ……今日のランチはお腹にやさしい食事のほうが良かった、ですよね……」
遠回しに褒められているとも知らず、瑞貴の有難い言葉を受け流してしまったちえり。
初めて耳にした出張先での不運な事情だったが、瑞貴への配慮など最初から除外して思考を巡らせていた自分が#悉__ことごと__#く恥ずかしい。
(……瑞貴センパイのことを一番に考えてるって言いながら、結局自分のことしか考えてない……)
目の前の光景と自分の不甲斐なさに、伸びきった社食のうどんを重ね合わせてしまう。
美味しい汁を吸って肥えた体に自信がついたと思っても、それはただ自分の勘違いで、本当はただ悪戯に時間を過ごしてふやけただけの元は味気ない人間なのだ。
「ちえり、そうじゃないよ。俺は”早く家で食事がしたい”って言ってるんだ」
「……っ!?」
そこまで言われてようやく気づく。
そして同時に存在自体を消されかかっている三浦理穂が親の仇をみるような剣幕で睨みつけてきた。しかし、やはり伸びたうどんの化身であるちえりは”天かす”を投げつける勢いで三浦に油を注いでしまう。
「あ、……三浦さんも同じですか? 出張先でのご飯、残念でしたね。うーん……美味しいお店は現地の方に聞くのが一番って言いますけど、口コミとかも結構正直ですので調べてみるのも――」
「……昨夜は私が選んだ店で食事をしたの。立派な小料理屋だったわ……」
「……えっ!? ……あ、えっと……」
『ばーか』
「…………」
しばらく静観していた鳥居隼人がそっぽを向いたまま気のない言葉を繰り出した。
結果がわかっていたかのようなその口ぶりに”教えてくれてもよかったのに……”と口を尖らせたい気持ちでいっぱいだったが、いつも感情が上回ることなく物事を見聞し、たちまち把握してしまう鳥居に尊敬の念が芽生える。
(なんだかんだで一番冷静なのはコイツなのかも……)
空回りした自分のせいで居た堪れない空気が先程より一層色濃くなってしまった。
言葉を紡ごうにも、また余計なことを口走ってしまいそうで怖いちえりはいっこうに減らないうどんを咀嚼し続ける。
顔を上げてしまうと目の前に三浦がいるため、その視線は下がったままだ。
「……っ」
彼女が苛々しているのは明らかで、いつ不満をぶちまけられるかと不安な気持ちが拭えない。
(私が悪いんだけど……このまま時間が過ぎてくれることをををっ……祈りたいっっ!!)
「……ねぇ。ひとつ聞いてもいいかしら?」
「は、はひっ!?」
なぜか自分に向かって話しかけられた気がして即答してしまったちえり。
それはまったく以てその通りだったのだが……彼女はとんでもないことを言い出した。
「若葉さん……あなたこの前男性用のスーツをクリーニングに出してたわよね? あのスーツ、どこかで見覚えあるんだけど誰のだったかしら?」
「……っ!?」
(見られてた? 嘘……どこで……?)
彼女の視線から察するにそれは問いかけではなく、確信をもった尋問だった。
(スーツを一緒に出すってことがどういうことか……正直に言っちゃったら瑞貴センパイは――)
仲人(バーコード)さんに了承してもらっているのだから隠す必要はないはずだ。
むしろそれで三浦が瑞貴から離れてくれれば、言ってしまったほうが楽になれるような気もする。
しかしいくら幼馴染とはいえ、結婚の予定もない男女が同じ部屋に棲むことを他の人たちはどう思うだろう。まさにそれが三浦の狙いだったわけだが……
ちえりはまわらない頭をフルに使って葛藤していると、鳥居隼人が大げさなため息をついた。
「……何を勘違いしてるのか知りませんが、あれは俺のスーツなんで。嘘だと思うなら俺の部屋に置いてありますので見に来ます?」
ちえりが人数分の水を用意し、他愛もない話をしながらそわそわと瑞貴を待った。
(夕食は何がいいべ……あ、冷蔵庫に入ってる食材覚えてないや。
んだっ(そうだ)! 瑞貴センパイに食べたいもの聞いて、買い物に寄って帰えっぺさ!)
グラスを滑る雫を見つめながら、一日ぶりとなる瑞貴との楽しい夕食を思い浮かべる。
(ご飯終わったらレンタルしてきた残りのDVD観て……
あ、でも……センパイ疲れてるべから早く寝かせてあげないと……)
瑞貴のことを考えると自ずと何を優先すべきかわかるようになってきた気がする。
組織のなかで生きているからだろうか? それとも、年相応の考えができるようになっただけか……。
いずれにせよ彼が大事なのだからそれで良いのだとちえりは思い込んでいた――。
「あ! 来ましたよっ!! こっちこっち~! 桜田さ~ん……」
「っ!」
(なんて出迎えようっ……おかえりなさい? ううん、先に謝らなくちゃ……)
色々と考えていたちえりの意識を若干高い佐藤の声が現実に引き戻す。
彼女の語尾が脱力系に終わっているのが若干気になるが、”百聞は一見にしかず”という言葉通り、そこにいるはずの大好きな彼の姿を視界に捉えた。
「……お疲れ様、です……」
ちえりが候補にあげていた中に”お疲れ様”の選択肢はなかったが、そう言わざるを得ない状況がそこにはあった。
瑞貴が帰ってきたことでようやく元通りになると思っていた日常がガラガラと音を立てて崩れていく。
「え、えっと、……あれって三浦さんですよね……?」
ちえりと瑞貴の仲を疑っていた佐藤は、その光景と自分の目を疑うように、しきりに瞬きを繰り返している。それはちえりも同じだった。目だけではなく耳までもがおかしくなったのだと思い込みたい。この場から立ち去りたい気分でいっぱいなのに体が鉛のように重い。
「……う、ん……」
目の前で立ち止まったのは瑞貴の腕に寄り添うように現れた三浦で、瑞貴も嫌がることなく仲睦まじい距離を一定に保っている。
「――それでねぇ、瑞貴ったら凄いのよ? 破損したデータの修復なんて一番早くて――……」
「さ、さすがですね~! 桜田さん!」
「このあと報告書を提出しないといけないのに私を気遣って”俺がやる”って言ってくれたの。瑞貴ったら優しいでしょ?」
「へ、へぇー! やっぱり桜田さんは優しいですね~!!」
気を使った佐藤だけが愛想笑いで話を繋いでくれているが、肝心の瑞貴は相槌もなく無表情を貫いている。
「…………」
(おかえりなさい……、
ごめんなさい……、
夕食、なにが食べたいですか……?)
三浦のトークが軽快に弾むなか、瑞貴へ伝えたい言葉が頭と心を何度も行き来する。
瑞貴への想いが小さな勇気を与えてくれたが、顔を上げたちえりを三浦のきつい視線がそれを制した。
「…………」
「……っ!」
言葉と食事の両方を飲み込むと、ありえないスピードでお腹がいっぱいになることをちえりは今日生まれて初めて知った。いや、正しくは食欲が失せてしまったと言うべきだが、風邪を引いても腹の減るちえりからすればこれは大ごとかもしれない。
「……腹減ってたんじゃなかったのか? 全然減ってねーけど」
ちえりの左隣に座った鳥居が、完食しかけの親子丼を口へ運びながら小声で話しかけてくる。
「う、うん……」
すると間髪入れず、向かい側に座っていた無表情の瑞貴がようやく笑みを浮かべ口を開いた。
「どうした? 珍しいな、ちえりが食欲ないなんて」
「……っううん……そんなこと、ないよ……?」
(……だめ、また心配かけちゃう……
私ってなんでこんなに自分勝手なんだろ。散々心配かけたくせに傷ついて、これじゃあ瑞貴センパイに迷惑かかっちゃう……)
「柄にもなく減量中みたいですよ」
「え?」
「へ……?」
まさかの鳥居の言葉に瑞貴とちえりの目が丸くなる。
(あ、もしかして……)
しかしその言葉は自分を気遣っての助け船だとわかると――
「そ、そうなのっ……! 実はいまダイエット中で……っ!」
例えすぐに沈む船だとしても、”優しい瑞貴が大波を起こすはずない、きっと優しく港に招いてくれる”と信じて鳥居の船に飛び乗ることにした。
(こんなダイエット方法……やだな……
恋する乙女は綺麗になるっていうけど、やつれるのとは違うはずなのに……)
そのまま苦笑いで乗り切ろうと試みるが、ちえりの乗った船にはどうやら船底に穴が開いていたらしい。
「そうじゃないだろ? ”宿泊先”の飯が合わなくて気分が優れないだけだろ?」
「…………」
「……っそんなこと……」
何故か一瞬、瑞貴と鳥居が睨み合っているような気がしたちえりは反論が遅れてしまった。
「俺もそうだったよ。ここ何ヶ月か毎日美味い飯を口にしてたからかな? 昨日から気分が悪くて仕方ないんだ」
「……っ! ごめんなさい気が回らなくてっ……今日のランチはお腹にやさしい食事のほうが良かった、ですよね……」
遠回しに褒められているとも知らず、瑞貴の有難い言葉を受け流してしまったちえり。
初めて耳にした出張先での不運な事情だったが、瑞貴への配慮など最初から除外して思考を巡らせていた自分が#悉__ことごと__#く恥ずかしい。
(……瑞貴センパイのことを一番に考えてるって言いながら、結局自分のことしか考えてない……)
目の前の光景と自分の不甲斐なさに、伸びきった社食のうどんを重ね合わせてしまう。
美味しい汁を吸って肥えた体に自信がついたと思っても、それはただ自分の勘違いで、本当はただ悪戯に時間を過ごしてふやけただけの元は味気ない人間なのだ。
「ちえり、そうじゃないよ。俺は”早く家で食事がしたい”って言ってるんだ」
「……っ!?」
そこまで言われてようやく気づく。
そして同時に存在自体を消されかかっている三浦理穂が親の仇をみるような剣幕で睨みつけてきた。しかし、やはり伸びたうどんの化身であるちえりは”天かす”を投げつける勢いで三浦に油を注いでしまう。
「あ、……三浦さんも同じですか? 出張先でのご飯、残念でしたね。うーん……美味しいお店は現地の方に聞くのが一番って言いますけど、口コミとかも結構正直ですので調べてみるのも――」
「……昨夜は私が選んだ店で食事をしたの。立派な小料理屋だったわ……」
「……えっ!? ……あ、えっと……」
『ばーか』
「…………」
しばらく静観していた鳥居隼人がそっぽを向いたまま気のない言葉を繰り出した。
結果がわかっていたかのようなその口ぶりに”教えてくれてもよかったのに……”と口を尖らせたい気持ちでいっぱいだったが、いつも感情が上回ることなく物事を見聞し、たちまち把握してしまう鳥居に尊敬の念が芽生える。
(なんだかんだで一番冷静なのはコイツなのかも……)
空回りした自分のせいで居た堪れない空気が先程より一層色濃くなってしまった。
言葉を紡ごうにも、また余計なことを口走ってしまいそうで怖いちえりはいっこうに減らないうどんを咀嚼し続ける。
顔を上げてしまうと目の前に三浦がいるため、その視線は下がったままだ。
「……っ」
彼女が苛々しているのは明らかで、いつ不満をぶちまけられるかと不安な気持ちが拭えない。
(私が悪いんだけど……このまま時間が過ぎてくれることをををっ……祈りたいっっ!!)
「……ねぇ。ひとつ聞いてもいいかしら?」
「は、はひっ!?」
なぜか自分に向かって話しかけられた気がして即答してしまったちえり。
それはまったく以てその通りだったのだが……彼女はとんでもないことを言い出した。
「若葉さん……あなたこの前男性用のスーツをクリーニングに出してたわよね? あのスーツ、どこかで見覚えあるんだけど誰のだったかしら?」
「……っ!?」
(見られてた? 嘘……どこで……?)
彼女の視線から察するにそれは問いかけではなく、確信をもった尋問だった。
(スーツを一緒に出すってことがどういうことか……正直に言っちゃったら瑞貴センパイは――)
仲人(バーコード)さんに了承してもらっているのだから隠す必要はないはずだ。
むしろそれで三浦が瑞貴から離れてくれれば、言ってしまったほうが楽になれるような気もする。
しかしいくら幼馴染とはいえ、結婚の予定もない男女が同じ部屋に棲むことを他の人たちはどう思うだろう。まさにそれが三浦の狙いだったわけだが……
ちえりはまわらない頭をフルに使って葛藤していると、鳥居隼人が大げさなため息をついた。
「……何を勘違いしてるのか知りませんが、あれは俺のスーツなんで。嘘だと思うなら俺の部屋に置いてありますので見に来ます?」