青いチェリーは熟れることを知らない①
(俺の部屋にって……あーーっ! トートバッグごと置いてきちゃった!!)

 体毛という体毛が抜け落ちるような感覚が全身を駆け抜け、口元は酸素が不足した魚のようにパクパクと意味のない動きを繰り返す。

「うそっ……」

 さらに目の前では追いつめたつもりが自分の首を絞めてしまった三浦は悔しそうに唇を噛んでいる。

「……だ、だって! あのスーツは瑞貴のお気に入りでっ……BARの夜に来ていたのと同じだったもの!」

「それは三浦サンの勘違いですよ」

「え……っ!? ふごッ……!」

(し、しまった!!)

 真顔で告げる鳥居の嘘があまりにも真実味を帯びていて、ちえりは自分の記憶違いなのかと一瞬戸惑いの声を上げてしまった。すると彼の視線がそれを制止し、”余計な口を開くな”とばかりに釘を刺されてしまった。

「そ、そんなはず……」

 鳥居の予期せぬ反撃にたじろぐ三浦は、冷や汗を噴き出しながら口元を押さえているちえりには気づいていない様子だった。

「…………」

(……どうしようっ……あいつの部屋に忘れてくるなんて……三浦さんは誤魔化せても、センパイは……)

 さらにその隣りでは口を噤んだ瑞貴の顔が並び、ちえりはこの後にくる免れぬであろう言い訳を考えていると、さらなる口を開いたのは鳥居隼人だった。

「あの夜、チェリーサンと一緒に帰ったとき雨に濡れて。スーツ出すって言うからついでに俺のも頼んだんです」

 またもそれが真実であるかのように堂々と言ってのける鳥居にハラハラしながらも、カッと目を開いた三浦と何か言いたげな瑞貴を交互に見やる。

「……っはは、本当にそうなんです。人使いが荒いったらありゃしな……」

「…………」

 鳥居の嘘に便乗するように畳み掛けたちえりだが、ジロリと責めるような視線を鳥居に送られ語尾が尻込みする。
 ちえりが黙ると、実年齢の倍以上もの落ち着きを纏った彼がさらに言葉を続けた。

「まぁ、あまり人の恋路を”詮索”すると馬に蹴られてどうにかなっちゃいますよ? 三浦サン」

「……っ!」

 なぜか悔しそうな三浦と反撃を許さない鳥居の口撃に脇汗が止まらない。

(これって……た、助けてくれてるんだよね!?
っていうか、馬に蹴られるのは人の恋路を”邪魔”するやつじゃないっけ……っ!?)

 こうして、ぐぅの根も出ない彼女の”三浦の乱”は一時休戦かと思われたが――

「……ちえり。ふたりだけで話がしたい。すこしいいかな?」

 そう言いながら腰を上げた瑞貴が人気の少ない廊下を一瞥し、行く先を促す。

「う、うん!? ……はいっ!」

 鳥居がついた即席の嘘は主に三浦をやり過ごすためのものだと考えられるが、これをどう瑞貴へ説明すればよいかわからない。

 そして全てが嘘ならどれほど楽だったことか……。
 経緯はどうであれ、鳥居の部屋にいた事実が少なくとも”クリーニング済みのスーツを置き忘れた日”一日が確定してしまったことになる。

「なに緊張してんだよ?」

「ゔっ……」

「はー……いい風だな」

 まるで家臣らの小言から解放されたように爽やかな笑みを浮かべた王子系イケメンの瑞貴。
 彼は食堂から出て突き当りにあるエントランスに着くと、換気用に開かれた小窓の傍に立った。

「……ごめんなさいセンパイ。私のせいで空気が悪く……」

 どう考えても圧倒的な被害者は瑞貴で、三浦とちえりの私情が複雑に絡んでいるせいで事態は悪い方へとどんどん流されていく。

「……”こんなことになったのは全部俺のせいだ”って言っただろ?」

 振りかえった瑞貴はどこか寂しげに眉をひそめながらため息をついた。

「? ……瑞貴センパイは何も……」

「初めからお前にカードキーを預けてたらこんなことにならなかった……はずだった。
ちえりとアイツとの距離を縮めたのは他でもない俺自身なんだって思ったら、なんか無性に苛々してさ……」

 どうやら瑞貴が言っているのは今日や昨日のことではないらしいと気づき、どこまで遡るのかと彼の言葉を邪魔しないよう言葉少なく問いかけてみる。

「……初めから? アイツって……?」

「昨日、あのコーヒーショップ近くのシティホテルに泊まったって言ってたよな」

「はい、あの新しい……」


 ――そう。日曜日に出かけた記念すべきDVDのレンタルショップデートの日――

 信号待ちで重なったふたりの唇。周りの音が聞こえなくなるほど頭の中は真っ白で、唇が離れ、微笑まれるまで自身の心臓は止まっていたのではないかと思うほどに不思議な感覚だった。
 時が動き出すと同時に込み上げる幸福感と、頬を染めた瑞貴の優しい眼差しと手がちえりをふわりと包んだ。

『あっ……もうすぐここオープンするんですねっ! カフェテラスもあるなんて素敵なホテル!』

 上京してきた際、何度か目にしていた建設中の巨大ホテル。
 整えられた景観はとても神秘的で、ビルの間に在りながらも緑化に余念のない、どこかほっとするぬくもりを感じるような創りになっていた。

『ん、仕事が落ち着く頃にはやってそうだな。今度ディナー兼ねて泊まってみるか?』

『……っそ、そそそそんなに甘やかさないでくださいよセンパイ!』

『チェリーがこの手に落ちてきてくれたらもっともっと甘やかしたいって俺は思ってるよ』

『……っあ、甘いサクランボですねっ!? もうすぐ収獲の時期だし、送ってくれるよう頼まなくちゃですねっ!!?』

『ぶはっ!』

 断りの言葉はなく、動揺しながらも楽しそうなちえりの言葉に瑞貴はとても嬉しそうに笑う。
 そしてその夜、確認したオープン日をしっかりと目に焼き付けながら、こっそり二名分の予約を入れた瑞貴だった――。

「ちえりが泊まったっていうあのホテル、オープン来月だよな」

「えっ……」

 まるで血液が逆流するような感覚に、目の前が真っ暗になる。
 土地勘のない自分が他のホテルを知るわけもなく、なるべく嘘がバレないようにと咄嗟に見かけたホテルを口にしてしまったのが裏目に出てしまった。

「ご、ごめんなさっ――」

「……鳥居なんだろ? いつも傍に居たの」


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