隻眼王の愛のすべて < コウ伝 >
「初めてお会いしたのもここでしたね。こんなに美しい方がいるのかと驚きました」
「あ……ありがとうございます」
「美しくて聡明な方を妻にできる陛下が羨ましいです」
(マリウス様が慕うシエル様の、妻になるわたし)
ノエリアは持っていたカップを置く。窓の外に目をやると、先ほどとさほど変わらない景色と曇り空だ。
「わたしは……そんなに褒めていただける人間じゃないのです」
ため息まで出てしまった。マリウスは不安そうな面持ちでこちらを見ている。祝福ムードだというのに自分がこんな顔をしてはいけないのに。
「どうしたのですか? なんだかお辛そうに見えるのですが。間違いだと思いたい」
「すみません……」
「部外者は黙っていろと言われるかもしれませんが、なにかノエリア様の心を重くしていることがあるのなら、どうでしょう。俺に言って軽くしてはいかがですか?」
申し出にノエリアは驚いた。たしかに、サラやリウに言うことはできない。マリウスは屈託のない笑顔で続けた。
「言葉の通じない動物だと思ってください。だったら言えるのではないですか?」
「動物……」
「そうだな、ライオンとか」
吹き出しそうになったノエリアを見てマリウスは「よく言われるんです」と笑った。
「その、シエル様は多忙だからいまちょっとふたりの時間が無くて、夕飯をひとりで食べても味気ないし、ひとりの寝室も寂しい。分かっているのです。シエル様は国王で、わたしはまだ勉強中の身で……ごめんなさい、支離滅裂でなにを言っているか」
マリウスは首を振る。
「わたしたち結婚はまだなのに、その……シエル様には妾の噂があって」
こんな風に言葉にすると胸が斬りつけられたみたいに痛む。
「国王に妾はなんら不思議な話ではないし、もしシエル様に希望があるのならわたしはなにも言えないけれど……自分だけが愛されていたと勘違いしているのかと、思って」
言いながらノエリアは落ち込んでいき、肩を落とす。
「ちゃんと結婚していないのに、わたしが王妃になるのは決まっているから、だから妾も同時なのかしら……そんな悲しいことってあるかしら」
マリウスは黙って聞いていたが「ノエリア様は」と口を開いた。
「それでは、ノエリア様は兄上を嫌いになったのですか?」
兄上、と言われてドキリとしたが、否定の意味でノエリアは首を振る。
「そんなことはありません。ただ、自分はシエル様にとってなにもかも足りないように思えて……愛されている自信がない」
聞こえが良いように言ってしまう自分が憎らしい。
(違う、もっと自分勝手で浅ましい感情よ)
「シエル様が他の女性をそばに置くなんて、嫌なの。妾を迎えるかもしれないと聞いて、激しく嫉妬をしているのです。こんな風に思うわたしは浅ましくて……嫌になる」
ついには手で顔を覆ってしまうノエリア。知り合って日の浅いマリウスだから言えるのかもしれない。迷いながら話している。こんなことを口にして良かったのか。しばし温室内に沈黙が訪れる。
「俺は、ノエリア様が好きですよ」
突然そのようなことを言われ、ノエリアは顔を上げた。真っ直ぐ見つめる緑色の瞳がある。左右同じで強い意思のある眼差しだった。シエルは柔らかく静かな水面のような目で見つめてくる。ふいに、マリウスがゴツゴツとした力強い手ノエリアの手を取り引き寄せた。
「マリウス様、なにを」
「ノエリア様。まだ兄上のものになっていないなら、俺のところへ来ますか?」
熱のある目は、ノエリアをからかっているわけではなさそうだ。しかし、シエルとの関係を不安に思うことを吐露したあとにこんなことを言われてはどう返していいのか分からない。
「俺を、兄上の代わりにしてもいいですよ。二番目で」
「マ、マリウス様。そんな」
(嫌なら止めればいい。マリウス様の言うとおり、まだ正式な妻ではない)
現実は逆らえない。ノエリアが婚約破棄を願い出てしまえばヒルヴェラ家がどうなるとか、止めるといってもどこへ帰るのかなど先のことはいっさい考えなければ、ここを飛び出すこともできるはず。しかし。
(シエル様から離れるなんて考えられない。嫌)
なにがあってもそばにいると心に決めたのだ。
「マリウス様。お気持ちは嬉しいのですが……わたしにはシエル様以外は考えられません……」
ノエリアは取られた手をぐっと握りしめ、零れそうになる涙を堪えた。
「離れたく……ないのです。彼が好きなのです」
マリウスは震えるノエリアに気付き手をそっと離す。マリウスは椅子から立ち上がってマントを掴む。出て行くのだろうかと思いノエリアは見上げた。
「女性の涙は苦手だ。すみません。困らせるつもりはありませんでした。あまりにお辛そうだから、俺ができることならと思ったのです」
そのようなマリウスの気持ちに感謝の思いはあるが、優しくされればされるほど身が縮んでいく気がする。
「分かっていますよ。あなたはシエル陛下だけを愛している」
ノエリアはぎゅっと目を閉じた。自分で分かっているはずなのに、他人から言われるなんて。そうだ、わたしはシエル様だけを愛している。思いは変わらないのだと。
「シエル陛下と同じ瞳の色でも、俺と目を合わせるのは怖いでしょう。あなたの瞳に困惑が広がった」
ふっとノエリアの記憶が遡る。
隻眼の自分と目を合わせるのは怖いだろう。シエルはノエリアにそう言ったことがあった。
同じようなことを言うなんて。
マリウスの優しさが嬉しく、そして切ない。自分が至らないから、だからこんな気持ちになるのだから、マリウスはなにも悪くない。
「マリウス様。違います。怖くなどなくて……」
温室の出入口へ向かおうとするマリウスは振り返った。
「ノエリア様、お気持ちをシエル陛下にきちんとお伝えしては? 俺に言えば気持ちは軽くなるでしょうけれど問題は解決しませんよね」
マリウスは柔らかく微笑むと、マントを羽織った。
「今日のことは他言しません。俺は役目が終われば国に帰ります。シエル陛下は、自分の愛したひとを最後まで大切にするお方でしょう」
仕事に戻ることを告げて、マリウスは温室を出ていった。
大きな背中を見送って、再びひとりになったノエリアは冷めたお茶の水面を見つめた。
強くなりたかった。
愛を知れば知るほどに、心は柔らかくなる。けれど不安や疑念に揺らされたとき激しく乱れる。
山の中にポツンと建つヒルヴェラの屋敷にいたときはとにかく前しか見ていなかった。
(わたし、いつの間にこんなに弱くなったのだろう)
ノエリアはシエルの顔を愛おしく思い出して、温室の窓から見える空を見た。ちらちらと雪が舞っていた。
「あ……ありがとうございます」
「美しくて聡明な方を妻にできる陛下が羨ましいです」
(マリウス様が慕うシエル様の、妻になるわたし)
ノエリアは持っていたカップを置く。窓の外に目をやると、先ほどとさほど変わらない景色と曇り空だ。
「わたしは……そんなに褒めていただける人間じゃないのです」
ため息まで出てしまった。マリウスは不安そうな面持ちでこちらを見ている。祝福ムードだというのに自分がこんな顔をしてはいけないのに。
「どうしたのですか? なんだかお辛そうに見えるのですが。間違いだと思いたい」
「すみません……」
「部外者は黙っていろと言われるかもしれませんが、なにかノエリア様の心を重くしていることがあるのなら、どうでしょう。俺に言って軽くしてはいかがですか?」
申し出にノエリアは驚いた。たしかに、サラやリウに言うことはできない。マリウスは屈託のない笑顔で続けた。
「言葉の通じない動物だと思ってください。だったら言えるのではないですか?」
「動物……」
「そうだな、ライオンとか」
吹き出しそうになったノエリアを見てマリウスは「よく言われるんです」と笑った。
「その、シエル様は多忙だからいまちょっとふたりの時間が無くて、夕飯をひとりで食べても味気ないし、ひとりの寝室も寂しい。分かっているのです。シエル様は国王で、わたしはまだ勉強中の身で……ごめんなさい、支離滅裂でなにを言っているか」
マリウスは首を振る。
「わたしたち結婚はまだなのに、その……シエル様には妾の噂があって」
こんな風に言葉にすると胸が斬りつけられたみたいに痛む。
「国王に妾はなんら不思議な話ではないし、もしシエル様に希望があるのならわたしはなにも言えないけれど……自分だけが愛されていたと勘違いしているのかと、思って」
言いながらノエリアは落ち込んでいき、肩を落とす。
「ちゃんと結婚していないのに、わたしが王妃になるのは決まっているから、だから妾も同時なのかしら……そんな悲しいことってあるかしら」
マリウスは黙って聞いていたが「ノエリア様は」と口を開いた。
「それでは、ノエリア様は兄上を嫌いになったのですか?」
兄上、と言われてドキリとしたが、否定の意味でノエリアは首を振る。
「そんなことはありません。ただ、自分はシエル様にとってなにもかも足りないように思えて……愛されている自信がない」
聞こえが良いように言ってしまう自分が憎らしい。
(違う、もっと自分勝手で浅ましい感情よ)
「シエル様が他の女性をそばに置くなんて、嫌なの。妾を迎えるかもしれないと聞いて、激しく嫉妬をしているのです。こんな風に思うわたしは浅ましくて……嫌になる」
ついには手で顔を覆ってしまうノエリア。知り合って日の浅いマリウスだから言えるのかもしれない。迷いながら話している。こんなことを口にして良かったのか。しばし温室内に沈黙が訪れる。
「俺は、ノエリア様が好きですよ」
突然そのようなことを言われ、ノエリアは顔を上げた。真っ直ぐ見つめる緑色の瞳がある。左右同じで強い意思のある眼差しだった。シエルは柔らかく静かな水面のような目で見つめてくる。ふいに、マリウスがゴツゴツとした力強い手ノエリアの手を取り引き寄せた。
「マリウス様、なにを」
「ノエリア様。まだ兄上のものになっていないなら、俺のところへ来ますか?」
熱のある目は、ノエリアをからかっているわけではなさそうだ。しかし、シエルとの関係を不安に思うことを吐露したあとにこんなことを言われてはどう返していいのか分からない。
「俺を、兄上の代わりにしてもいいですよ。二番目で」
「マ、マリウス様。そんな」
(嫌なら止めればいい。マリウス様の言うとおり、まだ正式な妻ではない)
現実は逆らえない。ノエリアが婚約破棄を願い出てしまえばヒルヴェラ家がどうなるとか、止めるといってもどこへ帰るのかなど先のことはいっさい考えなければ、ここを飛び出すこともできるはず。しかし。
(シエル様から離れるなんて考えられない。嫌)
なにがあってもそばにいると心に決めたのだ。
「マリウス様。お気持ちは嬉しいのですが……わたしにはシエル様以外は考えられません……」
ノエリアは取られた手をぐっと握りしめ、零れそうになる涙を堪えた。
「離れたく……ないのです。彼が好きなのです」
マリウスは震えるノエリアに気付き手をそっと離す。マリウスは椅子から立ち上がってマントを掴む。出て行くのだろうかと思いノエリアは見上げた。
「女性の涙は苦手だ。すみません。困らせるつもりはありませんでした。あまりにお辛そうだから、俺ができることならと思ったのです」
そのようなマリウスの気持ちに感謝の思いはあるが、優しくされればされるほど身が縮んでいく気がする。
「分かっていますよ。あなたはシエル陛下だけを愛している」
ノエリアはぎゅっと目を閉じた。自分で分かっているはずなのに、他人から言われるなんて。そうだ、わたしはシエル様だけを愛している。思いは変わらないのだと。
「シエル陛下と同じ瞳の色でも、俺と目を合わせるのは怖いでしょう。あなたの瞳に困惑が広がった」
ふっとノエリアの記憶が遡る。
隻眼の自分と目を合わせるのは怖いだろう。シエルはノエリアにそう言ったことがあった。
同じようなことを言うなんて。
マリウスの優しさが嬉しく、そして切ない。自分が至らないから、だからこんな気持ちになるのだから、マリウスはなにも悪くない。
「マリウス様。違います。怖くなどなくて……」
温室の出入口へ向かおうとするマリウスは振り返った。
「ノエリア様、お気持ちをシエル陛下にきちんとお伝えしては? 俺に言えば気持ちは軽くなるでしょうけれど問題は解決しませんよね」
マリウスは柔らかく微笑むと、マントを羽織った。
「今日のことは他言しません。俺は役目が終われば国に帰ります。シエル陛下は、自分の愛したひとを最後まで大切にするお方でしょう」
仕事に戻ることを告げて、マリウスは温室を出ていった。
大きな背中を見送って、再びひとりになったノエリアは冷めたお茶の水面を見つめた。
強くなりたかった。
愛を知れば知るほどに、心は柔らかくなる。けれど不安や疑念に揺らされたとき激しく乱れる。
山の中にポツンと建つヒルヴェラの屋敷にいたときはとにかく前しか見ていなかった。
(わたし、いつの間にこんなに弱くなったのだろう)
ノエリアはシエルの顔を愛おしく思い出して、温室の窓から見える空を見た。ちらちらと雪が舞っていた。