契約結婚なはずの旦那様に気づけばグイグイ迫られてます。
リーシャはカウチソファーから「うんしょっ」と立ち上がると本棚の上に置いたヴァイオリンケースを手に取る。

家を出る時に唯一持ち出しを許された高価な楽器。

15の誕生日にマザーに贈られたもの。

リーシャは肩当てをして手早く緩んだ弓を張り、松脂を塗ってチューニングする。

マザーが長年愛用していた特徴的な形の楽器は、滑らかに動くリーシャの腕に合わせて軽やかな響きを奏でた。

15才まで使っていた子供向けの練習用のものよりもずっと伸びのある音が部屋の中に響き渡る。
渡された時には驚きすぎて危うく取りそこねて床に落としてしまいそうになったものだった。

高価すぎる贈り物に受け取りを固辞しようとしたものの、他に譲る者もいないからと讓られた楽器。

柔らかな音色はリーシャの張り詰めた心を緩めてくれるし、演奏に集中している間は嫌なことも忘れさせてくれる。

リーシャは立て続けに子供の頃から慣れ親しんだ練習曲とワルツ、それから適当に即興で音をかき鳴らしていく。


母は、きっと予感していたのだろう。
いつか、こんなことになるんじゃないかと。

だから、リーシャが父親に引き取られる日が来ても、少しでも困らないように、少しでもリーシャの価値を上げるために、庶民の娘には不必要なマナーや教養を身に着けさせてくれたのだ。

子供の頃に使っていたヴァイオリンだってけして安いものではなかった。
母がメイド時代に貯め込んでいた貯金のほとんどをつぎ込んで買ってくれたもの。

「大丈夫。大丈夫よ、母さん。全部、ムダにはしないから」

母から譲り受けた美貌、マナー、教養。
マザーから讓られたヴァイオリン。

「辛かったらいつでも逃げ帰って来たらいい」

そんなことをしたらどうなるのか、わかっていてそう言ってくれた父さん。

全部、大切なものはリーシャの手の中にちゃんとあるから。

「大丈夫。大丈夫。大丈夫。きっと、上手くいく」






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