フェイク×ラバー
こんなときでも“王子様”なの?
いっそのこと大声で怒鳴ってくれた方が、後腐れなくて助かるのに。
「それより君──えっと、すずめの、さん?」
はじめの視線が、首から下げた美雪の社員証に向けられる。
「すずの、と言います」
「そっか。雀野さん、ね。手赤くなってるし、冷やした方がいいと思うよ」
「あ……」
結局はじめは、怒ることもなく、クリーニング代を受け取ることもなく、去って行った。何事もなかったかのように。
それが美雪には、どうしてだか怖くてたまらなくて、はじめが見つめていた社員証をぎゅっと握りしめた。
それからすぐに清花がやって来て、美雪はお昼を食べに行くこととなるのだが、ここまでは、事の“発端”でしかなく、何故仕事終わり、はじめとカフェで顔を突き合わせることになったのか。
その“過程”を説明するには、お昼休みも過ぎ去った午後五時五十分──終業時刻直前にまで時計の針を進める必要がある。
「昼、大変だったらしいね」
「……知ってるんですね」
パソコンの電源を切り、帰る支度を始める美雪に声をかけたのは、隣のデスクで今も作業中の先輩、犬飼 隆司(いぬかい たかし)。
「知ってるというか、偶然見ちゃったからねぇ。けどよかったじゃないか。怒られてなかったみたいで。さすがは“王子様”だ」
「……そう、なんですけど」
清花とお昼を食べながら、午後の仕事をこなしながら、頭の片隅に居座り続けるのは昼間の一件。
わざとじゃなかった。わざとじゃなかったけど、何も言われなかったことが気にかかる。
美雪としては、きちんと謝罪してクリーニング代も支払って、が理想だったのだが、狼谷 はじめは謝罪しかさせてくれなかった。怒られたかったわけじゃないし、クリーニング代を請求されたかったわけでもないが、後顧の憂いは無いに越したことはない。
「…………どうしようかな、これ」
デスクの引き出しを開ければ、そこには何の変哲もない白い封筒が入っている。
この封筒は、コンビニで急ぎ購入してきたもの。中に入っているのは、狼谷 はじめへ渡す
予定のクリーニング代。
ただ相手は同じ会社で働く社員とはいえ、会長の孫で社長の甥。実家も裕福だと噂で聞いたことがある。
つまりはきっと、あのスーツは高級なはず……!
「た、足りるのかな……」
足りなかったら申し訳ない。
けどそもそも、これをどうやって渡せばいいのだろう?
秘書室へ直接出向くのが確実なのだが、恐れ多くてできそうにない。偶然を装い渡す方法もあるのだが、あの人は目立つから。
できれば誰もいないところでそっと渡したい。
そして金輪際、関わらないでいたい。
それが唯一の願いなのだが、現状、この願いは叶いそうにない。