冷徹騎士団長の淑女教育
その日の夜も、アイヴァンの上着からは香水の匂いがした。夏の初め、この邸の庭園には一斉に薔薇が咲き誇るので、クレアはその匂いをしっかり覚えている。

まぎれもない、薔薇の香りだ。そして、薔薇の香水をつけるのは、この国では女性と決まっている。

そのことばかりが気になって、今日は勉強にもお稽古事にも集中できなかった。おかげでアイヴァンには何度も叱られ、クレアはすっかり疲れ切ってしまう。



「今日は、これで終わりだ」

だから、勉強の終了時間がいつもより遅くなってしまったのは当然のことだった。デスクの上の書物を閉じ、立ち上がるアイヴァンを見上げながら、クレアはいつものように寂寥に襲われる。

一日のうちで、アイヴァンがクレアのもとから離れてしまうこの時間が一番嫌いだ。ずっと傍にいたい。けれどもクレアはアイヴァンの養女のような存在であり、恋人でももちろん伴侶でもない。だから引き留める権利はないのだ。

「どうした? 何か言いたいことがあるのか?」

じっと見つめすぎてしまったのか、アイヴァンがそう問いかけてきた。クレアは慌てて姿勢を正すと、「いいえ……」と口ごもりながら誤魔化しの言葉を探した。

「その……。私はほとんど外に出る機会がないので存じ上げなかったのですけど、アイヴァン様はお顔が広いのですね」

「どういうことだ?」

「この界隈の人が、このお邸がアイヴァン様のものであることを知っているようでしたので」

別れ際のエリックの言葉を思い出しながら、そう口走っていた。すると立ち上がったままのアイヴァンの表情に、にわかに影が差す。
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