偶然でも運命でもない
1.彼女の日常
駅を出て早足で歩きながら、定期券を鞄にしまい、持ち手を肩に掛ける。
持ち手のベルトと肩の間で長い髪が引っ張られるのを不快に思いながら、鞄を少し持ち上げて反対の手で髪を搔き上げる。
そこでふと、違和感を感じて足を止めた。
「あれ?そういえば、私……」
独り言ちて振り返る。
会社を出る時は、シュシュしてなかったっけ?
思い返せば、仕事がひと段落してデスクを立つ時に無意識に外したような、そうでないような……。
とりあえず、鞄の中をごそごそと探るが、見当たらない。
うっかりデスクに置きっ放しだといいけど。
先週、買ったばかりの紺地にピンクの花柄のシュシュ。
安物だけど結構気に入っていた。
ま、いっか。高いものじゃないし。
そう思って、溜息をつく。
「ま、いっか。」
口にするとそれは、諦めよりももっと軽い感じがした。
コンビニに入り、弁当の棚を眺める。
なんとなく心惹かれるものが無くて、棚に並んだおにぎりに手を伸ばす。
焼き鮭と昆布。
定番のそれをひとつづつカゴに入れて、レジへと向かう。
鞄から取り出したスマートフォンの画面に、荷物の受け取り用のバーコードを表示させるのと、レジにいた店員が顔を上げるのはほぼ同時だった。
「こんばんは。」
「こんばんは。いつもありがとうございます。荷物、届いていますよ。」
顔馴染みの若い男性店員はそう言うと、差し出したバーコードをスキャンして、バックヤードへと荷物を取りに行く。
レジ前のケースに並ぶ揚げ物を眺めていると、その店員はすぐに戻ってきた。
「これで、お間違いないですか?」
問われて、差し出された箱に視線を落とす。
鈴木響子様…
内容物に雑貨と記載されたその小さなラベルには、間違いなく自分の名前が記載されていた。
名前と端末に配信されるバーコード、それとレジに表示される生年月日で本人を確認して荷物を受け渡す。
コンビニエンスストアでの受け取りの場合、そこに住所が記載されることはない。それが気に入って、インターネット通販で物を買う時は、毎回コンビニ受け取りを指定していた。
一人暮らしの部屋に、配送員が訪ねて来るのは苦手だった。
好きな時に受け取りが出来るこのシステムは都合がいい。
「はい。1987年5月4日。」
小さく頷いて、おにぎりを入れたカゴを差し出し、一緒に会計をする。
「その情報もう要らないですよ。僕、もう憶えちゃいました。」
「私の偽物が出たら、どうするの?」
響子が笑いながらそう言うと、その店員も笑った。
「その人、相当、変装の腕が良いんですね。それとも鈴木さん、怪盗か何かに狙われてるんです?」
小さな荷物とカゴの中身を素早くスキャンして、金額を告げると袋に詰めてこちらに差し出す。
スマートフォンのケースに差し込んだカードを見せるよりも早く、その店員はレジを操作する。
「カードを置いてください」と、レジに据え付けられたカードをスキャンする器械が抑揚の無い音声を発した。
ケースごと端末に乗せて、小さな音を立てる器械を眺める。
赤いランプが青に切り替わるのを確認して、レジを離れると、そのまま店を後にした。
後ろから「ありがとうございましたぁー。」と、声がする。
何処かに私の偽物がいたとして、この荷物を奪って何になるんだろう。
この箱の中には、浄水器の交換用カートリッジが入っているだけなのに。
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