偶然でも運命でもない
30.C
眼鏡を掛ける程ではないが、ポスターの文字が読めない。
かわりに大河が響子の横で、その文章を小声で追う。
響子は読み上げられた内容よりも、小さく書かれた文字を大河がその距離から読めることに感心していた。
「大河くんてさ、視力いくつ?」
「Aです。」
「エー?」
「1回、Bになったんだけど、Aに戻ったんだ。響子さんは?あれ読めないのって、Cくらい?」
「ちょっと待って。AとかBとかCって何?私、視力0.7よ。」
「じゃあ、Bかな。」
「だから、AとかBとかCって何?」
「わからないけど、CかDだと眼科行けって言われます。」
つまり、確実に運転免許の取れないレベル以下がCってことか。大河の口振りだと下はDまでしかない。幅広すぎないか…?
「逆に訊きたいんだけど。響子さん、何で自分の視力の細かい数字知ってるの?何か特殊な検査しました?」
「ふつーの視力検査だけど。健康診断の時に、測られるでしょ?あの、黒いスプーンみたいなの持って、齧りかけのドーナツみたいなの見るやつ。」
「齧りかけのドーナツ?」
「なんだっけ?ランドルト環?上下左右に向いたアルファベットのCみたいなの。」
指先を丸めてCの字を作り手首を動かす響子の仕草に、大河は困惑した表情を浮かべる。
「カタカナじゃないんですか?ランダムに表示された文字を読み上げるやつ。」
「は?……もしかして、今ってそうなの……?」
教育や健康管理が世代によって変わるのは、響子だってわかっている。簡略化されるものもあれば、より複雑化されているのもある。そんなことはわかっているつもりだけど。
視力測定って、そんなに簡略化していいものなんだろうか……?
「響子さん、どうしたの?」
大河は、眉根を寄せて黙り込んだ響子の顔を覗き込んでくる。
「今、凄く、超えられない歳の差を感じた。」
「まって、まって。俺、響子さんが言うほど子供じゃないつもりだし。響子さんだって、若いでしょ。」
「そう?若者に若いって言われても嬉しくないよ。10代と30代は違い過ぎるもの。」
「そりゃ、切り捨てたらそうなりますよ。でも四捨五入したら、20と30。……ほら。追いつくことは出来ないけど、近づくことは出来る。なんなら、あと3年待って。響子さんは切り捨てで、俺だけ切り上げてもいい。」
「埋められないでしょ、歳の差は。」
悲しくなったって、そんなのどうにもならないことだ。
きっと、響子の悲しみや不安は大河には伝わらない。
それでも彼は響子を安心させようと、あれこれ提案して微笑んでこちらを見下ろす。
余裕そうな表情の奥で心配そうに揺れる大河の瞳。
「埋めなくても、いいじゃないですか。違うのは歳だけじゃないし。」
「うん。」
「俺、こういう話は楽しいですよ。俺と響子さんの当たり前が違うってことも、面白いと思う。」
「面白い?」
「だって、俺、響子さんに教えてもらうまで、ピンクに名前がたくさんあるのも知らなかったよ。駅の伝言板も。ケータイの無い時代の待ち合わせなんて考えたこともなかったし。」
「うん。」
「視力検査も。俺、ちゃんと測ったことないし。」
言葉を選びながら、彼は響子に笑い掛ける。
「だから、響子さん、そんな顔しないで。」
そう言って、大河は自分を見上げた響子の顔に手を伸ばしてきた。
反射的に目を閉じる。
--俺、響子さんが言うほど子供じゃないつもりだし--
苦笑混じりの大河の声が頭の中でぐるぐると回りだす。
少しの間があって、大河の指が顎の先を掠める。
その感覚に、鼓動が早くなって、背中がこわばる。
そのまま彼の指は滑るように頬から瞼を撫で、眉間に吸い込まれるように、トンと、着地する。
目を開けると、響子の眉間を人差し指で軽く押すようにして大河が笑っていた。
「響子さん、眉間にシワ、寄ってる。」
「え。ヤバいじゃん。」
かわりに大河が響子の横で、その文章を小声で追う。
響子は読み上げられた内容よりも、小さく書かれた文字を大河がその距離から読めることに感心していた。
「大河くんてさ、視力いくつ?」
「Aです。」
「エー?」
「1回、Bになったんだけど、Aに戻ったんだ。響子さんは?あれ読めないのって、Cくらい?」
「ちょっと待って。AとかBとかCって何?私、視力0.7よ。」
「じゃあ、Bかな。」
「だから、AとかBとかCって何?」
「わからないけど、CかDだと眼科行けって言われます。」
つまり、確実に運転免許の取れないレベル以下がCってことか。大河の口振りだと下はDまでしかない。幅広すぎないか…?
「逆に訊きたいんだけど。響子さん、何で自分の視力の細かい数字知ってるの?何か特殊な検査しました?」
「ふつーの視力検査だけど。健康診断の時に、測られるでしょ?あの、黒いスプーンみたいなの持って、齧りかけのドーナツみたいなの見るやつ。」
「齧りかけのドーナツ?」
「なんだっけ?ランドルト環?上下左右に向いたアルファベットのCみたいなの。」
指先を丸めてCの字を作り手首を動かす響子の仕草に、大河は困惑した表情を浮かべる。
「カタカナじゃないんですか?ランダムに表示された文字を読み上げるやつ。」
「は?……もしかして、今ってそうなの……?」
教育や健康管理が世代によって変わるのは、響子だってわかっている。簡略化されるものもあれば、より複雑化されているのもある。そんなことはわかっているつもりだけど。
視力測定って、そんなに簡略化していいものなんだろうか……?
「響子さん、どうしたの?」
大河は、眉根を寄せて黙り込んだ響子の顔を覗き込んでくる。
「今、凄く、超えられない歳の差を感じた。」
「まって、まって。俺、響子さんが言うほど子供じゃないつもりだし。響子さんだって、若いでしょ。」
「そう?若者に若いって言われても嬉しくないよ。10代と30代は違い過ぎるもの。」
「そりゃ、切り捨てたらそうなりますよ。でも四捨五入したら、20と30。……ほら。追いつくことは出来ないけど、近づくことは出来る。なんなら、あと3年待って。響子さんは切り捨てで、俺だけ切り上げてもいい。」
「埋められないでしょ、歳の差は。」
悲しくなったって、そんなのどうにもならないことだ。
きっと、響子の悲しみや不安は大河には伝わらない。
それでも彼は響子を安心させようと、あれこれ提案して微笑んでこちらを見下ろす。
余裕そうな表情の奥で心配そうに揺れる大河の瞳。
「埋めなくても、いいじゃないですか。違うのは歳だけじゃないし。」
「うん。」
「俺、こういう話は楽しいですよ。俺と響子さんの当たり前が違うってことも、面白いと思う。」
「面白い?」
「だって、俺、響子さんに教えてもらうまで、ピンクに名前がたくさんあるのも知らなかったよ。駅の伝言板も。ケータイの無い時代の待ち合わせなんて考えたこともなかったし。」
「うん。」
「視力検査も。俺、ちゃんと測ったことないし。」
言葉を選びながら、彼は響子に笑い掛ける。
「だから、響子さん、そんな顔しないで。」
そう言って、大河は自分を見上げた響子の顔に手を伸ばしてきた。
反射的に目を閉じる。
--俺、響子さんが言うほど子供じゃないつもりだし--
苦笑混じりの大河の声が頭の中でぐるぐると回りだす。
少しの間があって、大河の指が顎の先を掠める。
その感覚に、鼓動が早くなって、背中がこわばる。
そのまま彼の指は滑るように頬から瞼を撫で、眉間に吸い込まれるように、トンと、着地する。
目を開けると、響子の眉間を人差し指で軽く押すようにして大河が笑っていた。
「響子さん、眉間にシワ、寄ってる。」
「え。ヤバいじゃん。」