偶然でも運命でもない
35.月の地図
「カニにもウサギにも見えない……。」
そう言って、響子はその写真に視線を落とした。
10年で一番明るいという満月を見逃したという響子に、大河が差し出したそのスマートフォンの画面いっぱいに表示された、白く丸い月は、クレーターや影の部分がはっきりと写っている。
「すごい。大河くん。……月ってこんなに綺麗に撮れるものなのね。」
画面を食い入るように見つめて、響子は小さく溜め息をこぼす。
「ちゃんと三脚で固定して設定合わせれば、誰でも撮れると思うけど。」
「ふつーはね、その“三脚で固定して”とか“設定して”とかが出来ないのよ。」
「そういうものです?」
「みんながスマートフォンのカメラを“使える”のはシャッターを押すだけで写真が撮れるからで、“使いこなせる”かは別の問題よ。」
「そうなの?」
「機械なんて、大体なんでもそう。」
「うん。」
響子はカップのミルクティーに口をつけて、それから、また月の写真を眺めた。
「……こんな風に、写真に収められるようになっても。月には月の伝説があって、それが語り継がれているの、不思議じゃない?」
「本当はないかもしれないけど、有るってことにした方が楽しいからじゃないかな。」
「この模様が、ウサギに見えなくても?」
「うん。……あ。響子さん、この模様、名前あるって知ってます?」
「模様の名前?クレーターとか?」
「違くて。その、クレーターとか黒い模様の一つ一つに、山脈や海の名前があるんです。地球みたいに。」
「そうなの?」
大河はテーブルの上のマグカップを端に寄せて、鞄からペンケースとノートを取り出すと、シャープペンで白いページに月の絵を描き始めた。
製図用の細いシャープペンの先は、白いノートに小さく擦れる音を立てて、写真で見た月の模様を描き出す。
「大河くんて、絵、上手いんだね。」
「そうです?暇な時、ずっと描いてたからかな?四角いものの製図は得意だけど、丸いものって難しくて。月で練習したんです……」
ノートから顔を上げることなく答える。
「製図?大学は建築系に行くの?」
「……いや、機械工学です。響子さんの言葉だと、工業系って言うのかな。」
大河は、一瞬、手を止め顔を上げて響子を見た。
それから、ノートに視線を戻して、最後のクレーターを書き込むと、シャープペンをケースにしまう。
「描けました。」
そのページをノートから破り取って、響子へと差し出して微笑む。
響子は神妙な面持ちでそれを受け取って、二人の間に月の絵を置いた。
大河は、ペンケースから青いペンを取り出して、月の真ん中から外へ向かって真っ直ぐに細く線を引く。
「これが、中央の入江。」
「入り江?」
「暗いところが海で、白いところが山。だから、間には入り江もある。」
「なるほど。地名なのね。」
大河は線の先に小さな文字で“中央の入江”と書き込んで、次の線を引いた。
「ここは、蒸気の海。」
「うん。……この、黒いウサギのところはなんていう海?」
「神酒の海、豊かの海、静かの海、晴れの海。」
「なるほど。別の海なんだ。」
「こっちは、危難の海。」
大河は次々と線を書き込んでは、海の名を記す。
海と入り江が終わると、次は山と小さなクレーターの名前を書き込んでいった。
思ったよりも、月の地名は多いらしい。
「最後に、これがティコ。」
大河はそう言って丸いクレーターを示して、“ティコ”と小さく書き加え、ペンをしまった。
「ティコ?」
「そう、ティコ。」
「……ティコ。」
響子が繰り返すと、大河は小さく笑って、冷めたコーヒーに口をつける。
「響子さん、それ、気に入ったんでしょ。」
「ティコ。気に入った。言葉の響きが可愛い。あと、真ん丸な形も可愛い。……ね、この紙貰ってもいい?」
「いいけど、何に使うんです?」
「月の地名、覚えようかな、って。」
「役に立たないですよ。」
「いいの、無駄は大事なの。」
そう言って響子は、大河を見つめた。
「もし、月に住むことになったら。私、虹の入江に住みたい。」
「神酒の海じゃないんだ?」
「ちょっと、どういうイメージよ、それ。」
響子の言葉を大河は笑って誤魔化す。
「ティコでもないんだ。」
「うん。ティコでもない。虹の入江がいい。」
「なんで?」
「嵐の大洋、雨の海、氷の海……周りは過酷だけど。虹の入江だけ守られているみたいに、明るくて穏やかなところだといいな、って。」
雨上がりの浜を想像する。
砂浜ではなく、ツヤツヤと光る濡れた玉砂利。凛と冷えた空気と雲の隙間から伸びる柔らかな陽射し。空に架かる大きな虹。
静かで穏やかな入り江の先端に白く大きな灯台を思い浮かべて、そこに住めたら……と、思う。
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