Liebe
「こちらとしては、あなたが海辺に倒れていたことくらいしか説明できないんだけど……何か覚えてることはある?」
その言葉に、頭を巡らせた。
言葉や物の名称はわかる。
しかし、今まで歩んできた筈の人生が全てなくなってしまったかのように、何も思い出せない。
出身も、家族も、何もかもがわからなかった。
「……ごめんなさい」
そう言って俯く。
言いようのない不安が胸に広がり、下唇を噛んだ。
前方からアンナの唸る声が聞こえる。
「うーん……まぁそういうこともあるわよね。何か思い出すまでここにいればいいわ」
いいでしょ?とアンナはウィリアムに問いかける。
ウィリアムはあぁと話を聞いていたかどうか怪しいくらいの生返事を返す。
着々と進む話についていけず、ぼーっと二人の会話を聞く。
「あの、ここにいればいいって……」
「ここはウィルの家なの。本当なら私が泊めてあげるべきなんだけど……家の状況的にそういうわけにもいかなくて、ごめんね」
申し訳なさそうなアンナに勢いよく首を横に振る。
こんな記憶のない見ず知らずの人間を泊めてくれること自体、ありがたい話だ。
「よ、よろしくおねがいします」
おずおずと頭を下げる。
アンナは明るい笑顔を浮かべた。
「困ったことがあったら言ってね。私でも、ウィルでもいいから」
その言葉でウィリアムに視線を移す。
しかし彼は黙って珈琲を堪能している。
もう目が合う気配はなかった。