オネェの髭Ⅰ(短編集)
「ホームレスの哲学者 花子Ⅰ」

 人はどこから来て、どこにむかおうとしているのか

ものごとに結果があるなら、かならず原因があるはず。

いにしえより、それらを理屈で解明しようとする人間が存在する。

その学問を哲学とよび、それを知的に理解しようとする人間を哲学者と呼ぶ

洋の東西を問わず存在した。


ここにも不世出の女性哲学者がいた。彼女を知る人は彼女のことを紙一重の哲学者と呼んだ。 紙一重のこちら側を一般人、向こう側を天才という位置づけをし、その壁を超えられなかった。 つまり単なる変人として扱われた。 但し、それは彼女の精神性の高みを理解できない人間が吐く言葉。

彼女の名は吉田花子。 父真二、母とし子の長女としてこの世に誕生した。 花子は三歳まで言葉を話さなかった。 

とし子は「元気ならそれでいい。 言葉が遅いくらいなんの問題もない。 この子は言葉を話すのが遅いのが特徴」そのように花子を観ていた。

花子のことを他人に話す時は「花子って言葉は話さないけど、この子の笑顔は観ている者を和ませてくれる天使のような子供なの」と語った。  

花子が三歳の誕生日を過ぎ間もない頃、ひとりで絵を描いていた。

「ハナちゃん、なに描いてるの?」。

「お花」初めて花子が言葉を話した瞬間だった。

「えっ?」とし子は我が耳を疑った。

「ハナちゃん、もう一度言ってみて?」

「お花…」

言葉は少ないが、確かにハナの口から出た言葉。 とし子は思わず近寄って抱きしめた。 目から涙が溢れ止まることを知らなかった。

「ハナちゃん、話が出来るの…… 偉い子だね」

「おかあさん、痛い」文章になっていた。

「ごめんね、ハナちゃん。おかあさん嬉しくて、きつく抱いちゃった。ゴメンね」

花子は淡々と絵の続きを描き始めた。 

夕方、父親が戻ってきた。

「ただいま!」

「お帰りなさい」花子の声だった。

「おう、ただいま……?」

「花子?」同時に後ろに立っているとし子の顔をみた。 満面の笑みを浮かべていた。

「花子おまえ、話せるのか」父親の目から涙が溢れていた。

とし子が「ハナちゃん、急に話しをするようになったの」

「そっか…とし子酒くれないか、今日は飲む。 お前も付き合ってくれ……」

「うん、私も頂きます」

これが、初めて花子の行動がひとを驚かせた瞬間だった。 言葉を話さないだけで理解力は普通の子のようにあった。 その後の花子は普通に言葉を話すようになった。

ある時、道ばたで死んでいる犬を観て、花子は呆然と立ちすくんでいた。 その犬が路上から処理されるまで一時間程じっと見守っていた。

夕方、家に帰った花子は母親に「お母さん、犬が死んでいた。 死んだ犬は何処へ行くの?」

「天国。 犬も人も死んだらみんな天国に行くの」

「私も?」

「そう、ハナちゃんもお母さんもみんな天国に行くのよ」

「……?」

花子の質問癖はこの頃からはじまった。

花子は十六歳になり地元の高校に通い始めた。 通学途中、急に立ち止まった花子は、他人の家の花壇をジッと見つめていた。 視線の先にはアリがいたのだった。
花子はアリの動きに興味を持った。結局、午前中はアリを眺めて終わってしまい、
給食時間に登校してしまった。 以来、アリから始まり池の鯉、アヒルなど一般人が普通に見過ごすようなところに興味が湧く花子だった。

高校時代に付いたあだ名が「哲学ちゃん」

花子はものごとの始まりや原因が気になるタイプだった。 そんなある日校舎の屋上で上級生が下級生を恐喝している場面に花子が直面した。

上級生が「おい君、少しお金をカンパしてくんねえかな」

下級生は「カンパするお金なんてありませんけど」

「全くないのかなあ? 財布見せてみなよ」

「なんでですか? 僕、あなた知りませんけど……」

「お前も、ものわかりの悪い奴だな、痛いこと嫌いでしょ?」語気が強くなっていた。

下級生は震えながら財布を出した。 その瞬間、横からその財布をわしづかみする手があった。 花子の手だった。

上級生が「なんだお前、その手をよけろや!」

「それって恐喝ですか?」

「バ~カ、カンパだよカンパ。おめえには関係ねえ、黙ってその手を離せ!」

「カンパって、好意的にするものじゃないんですか? この人、怖がってますけど。
これって恐喝っていうんじゃないですか……」

「てめえは黙ってろ。 俺は強制してねえ、こいつに聞いてみろや」

花子は矛先を変えた「あんた、どうなの?」

「……カンパです」

「どうしてなの? あんた、震えてるでしょ。 どうみたってこれは恐喝でしょ?」

「……」

「ちゃんと応えなさいよ!」

そのうち上級生は罰悪そうに姿を消してしまった。

なおも花子の問いかけは続いた「ちゃんと応えなさいよ」

「もうあいつ、いないけど……」

「そういう問題じゃない! これは恐喝でしょ?」

「もういいよ。これ、君にあげるから許して」

生徒は財布を花子に渡した。

「なんで私が?…… 馬鹿にしないでよ」

花子は生徒の財布を持つ手を払った。 自分は単に疑問を追求したいのだったのに。

その後、花子は考えるようになった。 

「……私は純粋にどうしてか聞きたかっただけなのに…… 私の行動って変?  誰か教えてほしい。 その後も花子のどうして癖は続いた。

花子の質問攻めにあった教員達からは、

「花子に気をつけろ」が合い言葉のようになり、彼女を避ける先生も多くいた。

そんな先生達の中にも唯一の理解者がいた。 物理の三宅先生だった。

「三宅先生、ひとつ聞いていいですか?」

ひとつ聞いていいですか? これが花子の口癖で、これが出たら質問攻めにあうのだった。

三宅は「手短に! ひとつだけならどうぞ」

花子の質問責めにあう前に必ずひと言付け加えるのだった。

「地球と月の距離は三十八万キロ。 太陽は1一億五千万キロですよね。 これってだれが測ったんですか?」

「誰が測ったか知らんが、計測のしかたは三角測量だ」

「太陽もですか?」

「太陽はケプラーの第三法則というらしいよ」

「銀河形はどうして円盤形で渦巻きだと実証できるのですか?」

「銀河系の形状はあくまでも仮説であって真実ではないよ。 未だに実証できないんだ。 家の中からその家の外観は判断できないだろ? つまり想像のひとつ」

花子はたえずこの調子であった。

ある時、なにを思ったか三宅が花子に質問した。

「花子くんに聞きます。 人にとって究極の問題は死です。
どうして人は死ぬのにお金を蓄えたり、財産を増やしたり、
地位や名誉を誇示したりすると思いますか?」

花子にとっては予期せぬ強烈な質問。

花子は答えられずに自問自答した。

「人は確実に死ぬ、蓄え、あの世へ持って行けない、地位、土地、名誉、なぜ?」

花子はうつむいたまま返事を返そうとしなかった。

「花子くん」

「……」

「お~い花子くん」

「……」

「ごめん。花子くんには難しい質問だったようだ。 先生が悪かった。 今の質問忘れてくれないか」

「あっハイ」

二人はその場を離れた。


それからの花子は寡黙になり、いつも宙を眺めるようになった。 三宅の問いに答えられないまま月日は過ぎ、花子は高校三年になった。

相変わらず花子流の学校生活を続けていた。 普通なら何気なく見過ごす諸事を花子は気になるのだった。 ある時、友人の睦子が花子に質問をした。

「ねえ、悩みや苦しみって何処から来ると思う?」

「自分の要求が叶えられない時」花子は即答した。

「じゃあ、その要求が叶えられないことが当たり前に思えるようになった時に、
人は苦しみも感じないわけ?」

「たぶん、途中ですり替えたんだと思う」

「どういう事?」

「その要求が叶えられっこないと悟った段階で、要求が消え失せたんだと思う。
同時に、苦しみも消滅したと思う」

「つまり? 簡単に説明してよ」


「上手く言えないけど、苦しみの原因って未知への恐怖だと思うの。 その未知が未知でなくなった時、苦しみも消滅すると思わない?」

「つまり苦しみと不安は同時進行という意味なの?」

なるほど、やっぱり哲学ちゃんは考えることが違うね」

「なにが?」

「何でもない」

その後、東洋大学の哲学科に入学をした花子は自分と同じようなタイプが大勢いることに安らぎを覚えた。

その頃には哲学ちゃんと呼ぶものもなく、みんなにハナちゃんと呼ばれていた。
花子にとって楽しい大学生活が瞬く間に過ぎ去り、就職を決める四年生のことだった。

親友の直子が「ハナちゃんはどういう進路にするの?」

「私は何も考えてないの。 働くという意味合いが解らなくなってしまってるの」

「だって、働かないと食べていけないでしょう。 どうするのよ?」

「路上生活者もいいかなって思ってるのね」

直子はハナの顔を凝視した「あんた本当にそんなこと考えてるの? 両親はなんって?」

「私の人生は私が決めるのね。 親は肉体の親であって、魂の親ではないの」

「ハナちゃんの言いたいことは解る。 けど、親があって今のあなたがあるのでは?」

「肉体はね」

「で、ホームレスになってどうするの?」

「質問の意味が解らないけど……?」


「単純に社会通念として言うね。一般社会として人間は働く義務があるのね、それが社会への貢献で、私達もみんなを生かし生かさせてもらってるの」

「うん」

「だから、ハナちゃんもこの社会にいる限り、みんなの世話になって生きてるわけ」

「うん」

「それはお互いが了解しあってのことなの。 それが社会であり、生きる手段なのね。 ハナちゃんはそれを無視して生きるの?」

「だって、ハナはハナがが納得した生き方をしたいの。 直子がいった生き方をハナが望んだらそのように生きます。 でも、今はその様な生き方をハナは望んでないの……」

「それがホームレスなわけ?」

「うん、とりあえずホームレスでいいかなって思ったりする」

花子は躊躇無く淡々と応えた。


大学を卒業し三年の月日が過ぎた。 直子が彼氏と横浜の中華街で食事をし、その足で山下公園を散歩していた時だった。

彼氏が「直子、あれ見てごらん。 どう思う?」あるホームレスを指していった。

「どうって?」

「なんか不自然じゃない?」

「なんで……? 若いかも……」

急に何を思ったのか直子はそのホームレスに近寄った。

「おい、直子どうしたの?」彼が言った。

彼の言葉に耳を貸さず、そのホームレスの前で立ち止まった。

小さな声で「……ハ、ナ……?」

そのホームレスはゴミカゴをあさる手を止めた。

直子はもう一度呟いた「ハナちゃん……」

そのホームレスは声のする方に目をやった。 見たことのある女の子が目の前に立っていた。

「な、お、こ……?」

「やっぱりハナちゃんだ。 あんた、本当にホームレスになったの?  私はあの時、冗談だとばかり思ってた。 ハナちゃんの実家に連絡しても居場所わからないっていうし心配してたの。 こんな所でなにやってるのよ?」

直子の目から涙が溢れていた。

「見ての通り、ホームレスだけど……」言葉によどみがなかった。

「それは、見たら想像付くけどなんで?」

当然の質問である。

「私、言ってなかったっけ?」

直子は三年前のハナとの会話を思い出した。
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