残念少女は今ドキ王子に興味ありません
Other than ①
「…課長、なんかやつれましたね。」
苦笑いと共に言われること、すでに5回。
そんなにか?と顎を撫でながらデスクについた。
机の上の山盛りになった書類に、軽くため息をつく。たった3日でこれとか。全く、やれやれだ。
酷く咳き込むな…と思ってから熱が出るまでがあっという間だった。どうにも起き上がる事すら厄介で、SOSを出したのだが、やって来た“彼”は意外に面倒見が良く、次の日には熱も下がった。
それで、次の日には仕事に行こうと思ったのだが。
「バカじゃないの?」
一刀両断だった。
彼女によく似た顔は、子供の頃よく女の子に間違えられたほどに整っているのだが、その顔で心底呆れた―――という表情を全く取り繕うこともせずに言われるとどうにも逆らうことが出来ず、結局3日も休むハメになってしまった。
彼はこの春から、名門私立高校に入学と同時に寮へ入っているのだが、今は試験中だから問題無いと言って、うちのリビングに泊まり込んでいた。因みに試験についても、「定期テストなんて、授業で習ったとこしか出ないだろ」の一言だった。我が息子ながら―――いや、彼女の教育の賜か。
ただ、大柄な身体でソファに寝るのは、正直キツかっただろうと思う。まあ、たぶんそう使うことはないだろうが、念の為、今度客用布団を買っておこう―――そんな事をボンヤリと考えていると、デスクの辛うじて空いたスペースに、コーヒーが置かれた。
「ああ、ありがとう。」
顔を上げると、課の女子社員―――確か役員の姪だったか…が、はにかみながら会釈して、いそいそと自分の席へ戻っていく。
この会社は課ごとにマシンを導入して置いてあるので、各自好きな時に好きなように飲める事になっているのだが、何故かここの課の女子社員は課長に入れたがる。
朝出る時にも飲んでいるから正直要らないのだが、何度も何人にも「勝手に飲むから」と伝えても、皆決まって「ほっとくと課長は休まれないので」と返してくるので、もう放置する事にした。
書類を手に取った所で、側のデスクから声がかかる。
「あ、そう言えば、星宮さんが復帰したら電話下さい、だそうです。」
「星宮が?何かあったのか?」
「いえ、急ぎじゃないそうですけど。」
「そうか。」
星宮は2つ年下の同期だ。
高等専門学校を卒業しての入社で、この会社の他の女子社員のようなコネ入社ではない、珍しいタイプだった。
入って直ぐに2級建築士を取得すると、その四年後には1発で1級に合格した。それだけでも大したものだが、社内試験を受けて一般職から総合職に移るというのは、男でもなかなか出来ることでは無い。
バブル期に入った能無し共よりもよっぽど仕事が出来る星宮は、誰よりも信頼できる同期で、飲み仲間だった。
だった―――と過去形になったのは、彼女がこの春からベトナムの巨大プロジェクトに配置されたからだ。たとえ総合職とはいえ、年齢的に彼女が結婚していたらこの話は無かっただろう。
そう言うと、「してないもんはしょうが無いじゃん?平気、平気~」と、いつものようにカラカラと豪快に笑い飛ばしていたが、1人で海外というのは結構キツいんじゃないだろうかとも思う。
落ち着いたら、1度様子を見に行ってみるか…と思いながら、決裁の必要な書類に目を通し始めた。
『まさか、今日も残業する気じゃないでしょうね?』
電話の向こうから剣呑な声が上がる。
あっちの時差は2時間だから…と思って19時過ぎてからかけたのが間違いだったか?
『熱出したって聞きましたよ?それ、絶対疲れもあると思う。』
その言葉に思わず笑ってしまった。
同じ事を、彼にも言われたからだ。
『ほら~、その件は了解しましたから、今日はもうとっとと帰って下さい。また休まれる方が迷惑ですから!』
はいはい、と電話を切って、お言葉に従う事にした。
お疲れ様です―――という声に返事を返しながら、会社を出た。
駅から歩いて直ぐのマンションは、ワンフロアに住戸が3戸しかないこじんまりとしたものだ。子供のいない世帯向けに作られたのだろう、その内の1つ、1LDKを1人になった時に中古で買った。
引っ越しの時に、星宮が住んでいたのにはビックリしたが、会社からの距離や周辺環境、間取りなどからいって決めたと言うと、似たもの同士なんですかね…と笑っていた。
『もう、結婚はしないんですか?』
と聞かれた時に、微かに微笑みだけで返した。
だからかもしれない。
『なんで結婚しなかったんだ?』
ベトナム行きが決まった時、結婚してれば無かっただろうとそう聞いたら、彼女はそれには答えずに、微かに微笑んでグラスを傾けた。
それは、それまでに見た事もない表情で、それから何度も思い出してしまうのは何故だろうか、なんて。
―――考えてもらちがあかない。
軽く首を振って、また歩き出した。
マンションに着いた頃には21時を回っていた。
エントランスを抜けてから、メールコーナーに入る。
オートロック完備のこのマンションは、外部の人間がエントランスを超えられないように、メールコーナーをポストと宅配ボックスで隔てて、外部と内部を分けてある。
宅配ボックスはその名の通り、宅配便を入れて暗証番号を設定し、その暗証番号を記入したものをポストの方に入れておくものだ。
配達員が外部側から入れた郵便物は、一旦入れると取れないようにも工夫してあるが、宅配ボックスはあまり使わない住人が多かった。やはり、イマイチ信用出来ないという事か。
今度の新規物件にあるマンションにも設置予定だが、カタログをよく見て検討させるか…などと思いながら、ポストを開けた。
水道代の明細と、ダイレクトメールを取り出すと、ひらりと何かが落ちた。目をやると、何かの紙切れ―――メモ用紙のようだ。
可愛らしい花柄で、小さく“Liquor store Andou”と書かれている。アンドウ…と反芻して、一軒の店に思い当たった。
そう言えば、星宮のオススメの酒屋がそういう店だったような?遅くまで開いてるんだと言っていたが、流石に22時をまわると閉まっているから、まだ行った事がない。
そのメモには、4桁の数字が記入されていた。
『昨日のお礼です。大したものじゃなくてすみません。』
お礼?―――何の事だろう?
全く覚えがないものの、放置する訳にもいかないかと思い、番号を入れてボックスを開けると、紙袋が入っていた。
中には、フランス産のスパークリングミネラルウォーター1パックと封筒が入っている。封筒の中身は、金だった。
1,000円とはいえ、現金であることには変わりない。
人違いであれば、返す必要があるだろう。
しばらく思案してから、その紙袋を持ってマンションを出た。スマートフォンで店を検索すると、駅とは反対方向ながら、案外近場にあった。
まだ明かりは点いているが、シャッターは半分下ろされている。
その下を潜って、店内に入ると、レジカウンターに大柄な筋肉マンが立っていた。
「あら~、すみません~。今日もうお終いなんですけど。」
声と見た目と言葉が会ってない事に内心戦きながら、さっきのメモ用紙を取り出す。
「ああ、いや、ちょっと聞きたい事があって。」
「聞きたい事?」
小首を傾げるのは止めて欲しいと思いながら、紙袋の口を広げて中身を見せた。
「これは、お宅の商品だろうか?」
「…あら?これ…」
「購入した人間に覚えが?」
続けて訊ねると、筋肉マンが困った様に眉を下げ、えーと…と言葉を濁した。
「“お礼”と書かれているのだが、どうにも覚えが無くてね。どのような人物だったか教えてもらえると助かるんだが。何しろ、現金が入っているし。」
「うーん、そうですねぇ…。今日これを買っていったのは、“けいしょう”の、生徒さん、なんですけど…」
「けいしょう…」
脳裏をよぎったのは、昔見せてもらった、妻だった女性の卒業アルバムだった。確か、“慶祥女学園”という学校で…
「セーラーの…」
知らずに口にしていた。
なかなかお目にかかる事の無い制服だったので、印象深かった―――からなのだが。
だが、どうしてそこの生徒が―――と思った時、不意に思い出した。
『ここって、高校生の娘がいる家族が住んでる?』
そう聞いてきた、彼の顔を。
生憎、マンションの住人は1人しか知らなかったから、「父さんに聞いたのが間違いだった」と返されて―――
思わず、頬が緩んだ。
彼が、どんな顔をするだろうか?と思うのは、父親としては仕方がないと思う。
直ぐに帰って、メッセージを―――そう思い、
「どうもありがとう。」
と言って、筋肉マンに背中を向けた。
その、襟首を。
「おう、待てや、ゴラ。」
というダミ声と共に摑まれ、引き寄せられる。
振り向いた先の、顔。
なるほど、そっちが地か―――
苦笑いと共に言われること、すでに5回。
そんなにか?と顎を撫でながらデスクについた。
机の上の山盛りになった書類に、軽くため息をつく。たった3日でこれとか。全く、やれやれだ。
酷く咳き込むな…と思ってから熱が出るまでがあっという間だった。どうにも起き上がる事すら厄介で、SOSを出したのだが、やって来た“彼”は意外に面倒見が良く、次の日には熱も下がった。
それで、次の日には仕事に行こうと思ったのだが。
「バカじゃないの?」
一刀両断だった。
彼女によく似た顔は、子供の頃よく女の子に間違えられたほどに整っているのだが、その顔で心底呆れた―――という表情を全く取り繕うこともせずに言われるとどうにも逆らうことが出来ず、結局3日も休むハメになってしまった。
彼はこの春から、名門私立高校に入学と同時に寮へ入っているのだが、今は試験中だから問題無いと言って、うちのリビングに泊まり込んでいた。因みに試験についても、「定期テストなんて、授業で習ったとこしか出ないだろ」の一言だった。我が息子ながら―――いや、彼女の教育の賜か。
ただ、大柄な身体でソファに寝るのは、正直キツかっただろうと思う。まあ、たぶんそう使うことはないだろうが、念の為、今度客用布団を買っておこう―――そんな事をボンヤリと考えていると、デスクの辛うじて空いたスペースに、コーヒーが置かれた。
「ああ、ありがとう。」
顔を上げると、課の女子社員―――確か役員の姪だったか…が、はにかみながら会釈して、いそいそと自分の席へ戻っていく。
この会社は課ごとにマシンを導入して置いてあるので、各自好きな時に好きなように飲める事になっているのだが、何故かここの課の女子社員は課長に入れたがる。
朝出る時にも飲んでいるから正直要らないのだが、何度も何人にも「勝手に飲むから」と伝えても、皆決まって「ほっとくと課長は休まれないので」と返してくるので、もう放置する事にした。
書類を手に取った所で、側のデスクから声がかかる。
「あ、そう言えば、星宮さんが復帰したら電話下さい、だそうです。」
「星宮が?何かあったのか?」
「いえ、急ぎじゃないそうですけど。」
「そうか。」
星宮は2つ年下の同期だ。
高等専門学校を卒業しての入社で、この会社の他の女子社員のようなコネ入社ではない、珍しいタイプだった。
入って直ぐに2級建築士を取得すると、その四年後には1発で1級に合格した。それだけでも大したものだが、社内試験を受けて一般職から総合職に移るというのは、男でもなかなか出来ることでは無い。
バブル期に入った能無し共よりもよっぽど仕事が出来る星宮は、誰よりも信頼できる同期で、飲み仲間だった。
だった―――と過去形になったのは、彼女がこの春からベトナムの巨大プロジェクトに配置されたからだ。たとえ総合職とはいえ、年齢的に彼女が結婚していたらこの話は無かっただろう。
そう言うと、「してないもんはしょうが無いじゃん?平気、平気~」と、いつものようにカラカラと豪快に笑い飛ばしていたが、1人で海外というのは結構キツいんじゃないだろうかとも思う。
落ち着いたら、1度様子を見に行ってみるか…と思いながら、決裁の必要な書類に目を通し始めた。
『まさか、今日も残業する気じゃないでしょうね?』
電話の向こうから剣呑な声が上がる。
あっちの時差は2時間だから…と思って19時過ぎてからかけたのが間違いだったか?
『熱出したって聞きましたよ?それ、絶対疲れもあると思う。』
その言葉に思わず笑ってしまった。
同じ事を、彼にも言われたからだ。
『ほら~、その件は了解しましたから、今日はもうとっとと帰って下さい。また休まれる方が迷惑ですから!』
はいはい、と電話を切って、お言葉に従う事にした。
お疲れ様です―――という声に返事を返しながら、会社を出た。
駅から歩いて直ぐのマンションは、ワンフロアに住戸が3戸しかないこじんまりとしたものだ。子供のいない世帯向けに作られたのだろう、その内の1つ、1LDKを1人になった時に中古で買った。
引っ越しの時に、星宮が住んでいたのにはビックリしたが、会社からの距離や周辺環境、間取りなどからいって決めたと言うと、似たもの同士なんですかね…と笑っていた。
『もう、結婚はしないんですか?』
と聞かれた時に、微かに微笑みだけで返した。
だからかもしれない。
『なんで結婚しなかったんだ?』
ベトナム行きが決まった時、結婚してれば無かっただろうとそう聞いたら、彼女はそれには答えずに、微かに微笑んでグラスを傾けた。
それは、それまでに見た事もない表情で、それから何度も思い出してしまうのは何故だろうか、なんて。
―――考えてもらちがあかない。
軽く首を振って、また歩き出した。
マンションに着いた頃には21時を回っていた。
エントランスを抜けてから、メールコーナーに入る。
オートロック完備のこのマンションは、外部の人間がエントランスを超えられないように、メールコーナーをポストと宅配ボックスで隔てて、外部と内部を分けてある。
宅配ボックスはその名の通り、宅配便を入れて暗証番号を設定し、その暗証番号を記入したものをポストの方に入れておくものだ。
配達員が外部側から入れた郵便物は、一旦入れると取れないようにも工夫してあるが、宅配ボックスはあまり使わない住人が多かった。やはり、イマイチ信用出来ないという事か。
今度の新規物件にあるマンションにも設置予定だが、カタログをよく見て検討させるか…などと思いながら、ポストを開けた。
水道代の明細と、ダイレクトメールを取り出すと、ひらりと何かが落ちた。目をやると、何かの紙切れ―――メモ用紙のようだ。
可愛らしい花柄で、小さく“Liquor store Andou”と書かれている。アンドウ…と反芻して、一軒の店に思い当たった。
そう言えば、星宮のオススメの酒屋がそういう店だったような?遅くまで開いてるんだと言っていたが、流石に22時をまわると閉まっているから、まだ行った事がない。
そのメモには、4桁の数字が記入されていた。
『昨日のお礼です。大したものじゃなくてすみません。』
お礼?―――何の事だろう?
全く覚えがないものの、放置する訳にもいかないかと思い、番号を入れてボックスを開けると、紙袋が入っていた。
中には、フランス産のスパークリングミネラルウォーター1パックと封筒が入っている。封筒の中身は、金だった。
1,000円とはいえ、現金であることには変わりない。
人違いであれば、返す必要があるだろう。
しばらく思案してから、その紙袋を持ってマンションを出た。スマートフォンで店を検索すると、駅とは反対方向ながら、案外近場にあった。
まだ明かりは点いているが、シャッターは半分下ろされている。
その下を潜って、店内に入ると、レジカウンターに大柄な筋肉マンが立っていた。
「あら~、すみません~。今日もうお終いなんですけど。」
声と見た目と言葉が会ってない事に内心戦きながら、さっきのメモ用紙を取り出す。
「ああ、いや、ちょっと聞きたい事があって。」
「聞きたい事?」
小首を傾げるのは止めて欲しいと思いながら、紙袋の口を広げて中身を見せた。
「これは、お宅の商品だろうか?」
「…あら?これ…」
「購入した人間に覚えが?」
続けて訊ねると、筋肉マンが困った様に眉を下げ、えーと…と言葉を濁した。
「“お礼”と書かれているのだが、どうにも覚えが無くてね。どのような人物だったか教えてもらえると助かるんだが。何しろ、現金が入っているし。」
「うーん、そうですねぇ…。今日これを買っていったのは、“けいしょう”の、生徒さん、なんですけど…」
「けいしょう…」
脳裏をよぎったのは、昔見せてもらった、妻だった女性の卒業アルバムだった。確か、“慶祥女学園”という学校で…
「セーラーの…」
知らずに口にしていた。
なかなかお目にかかる事の無い制服だったので、印象深かった―――からなのだが。
だが、どうしてそこの生徒が―――と思った時、不意に思い出した。
『ここって、高校生の娘がいる家族が住んでる?』
そう聞いてきた、彼の顔を。
生憎、マンションの住人は1人しか知らなかったから、「父さんに聞いたのが間違いだった」と返されて―――
思わず、頬が緩んだ。
彼が、どんな顔をするだろうか?と思うのは、父親としては仕方がないと思う。
直ぐに帰って、メッセージを―――そう思い、
「どうもありがとう。」
と言って、筋肉マンに背中を向けた。
その、襟首を。
「おう、待てや、ゴラ。」
というダミ声と共に摑まれ、引き寄せられる。
振り向いた先の、顔。
なるほど、そっちが地か―――