恋かもしれない
隣では男性が何かを言い続けており、女性の切羽詰まった感じの声もする。

──怖い。

騒ぎを聞き付けたのか、幾つもの足音が隣の部屋に吸い込まれていく。

それでも怒声が止まらなくて、何人もの声が重なって大きくなっていく。

──やだ、怖い。やめて。

「綾瀬さん、大丈夫ですから心配しないで。すぐに収まりますから。綾瀬さん? 綾瀬さん!?」

体が震える。佐藤さんの顔が霞んで見える。息がしにくい。

「や……や、やだ」

「綾瀬さん! 落ち着いて息をして。ほら、大丈夫ですよ」

佐藤さんが私の手を握って、背中を摩ってくれる。

大丈夫、大丈夫、と呪文のように何度も唱えてくれる。

騒ぎが収まってきたのか、隣からも声が聞こえなくなってきた。

次第に恐怖心が薄れ、徐々に呼吸も整ってくる。

「す……すみません……あんな風に、怒鳴る男性の声がすごく苦手で……もう、平気です」

「そう? まだ震えてるじゃないですか。お水持って来ましょうか? それとも温かいお茶がいいかしら」

「いえ、大丈夫です。心配掛けてすみません。もう帰ります」

「そうね、そうした方がいいかしら。岩田さんと会う日が決まれば、また連絡しますね」

タクシーを呼ぶと言うのを断って、エントランスまで佐藤さんに送って貰い、とぼとぼと駅に向かう。

空は黒い雲が広がっていて、今にも雨が落ちてきそうだ。

今日の予報は晴れだったのに急に変わるなんて、まるで私の心の中みたい。

あんな怒声、久しぶりに聞いてしまった。

私、まだ怖いんだ……。
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