魔法が解けた、その後も

「はあ……」

 保健室を出て暫く歩くと、藤倉君は小さなため息を吐いた。

「どうしたの?」
「いや、俺、かっこ悪いなって思って」
「え?」

 藤倉君がかっこ悪かったら、世の中の男の子でかっこいい子がいなくなっちゃうじゃない、そんなことを思いながら彼を見上げる。
 すると何とも気まずそうな瞳とぶつかった。

「月島のことになると、余裕なくなっちゃうみたい」
「そ、そんな」

 困ったように笑う彼に見つめられると、それだけで私の心拍数は急上昇してしまうというのに、そんなことまで言われて、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
 想いは私の方が断然強いと思っていたけど、そうとも言い切れないのかもって、舞い上がってしまいそうになる。

「これからは、毎日一緒に帰りたい」

 彼が立ち止まる。保健室がある棟は教室がある棟とは別なので、あまり人気はない。それでも昼休みだから、全く誰もいないってわけじゃなくて、尾ひれを付けた噂が飛び交っている渦中の私たちのことだから、わりと遠くからでも注目されていた。

「毎日?」
「うん。迷惑?」

 そんなことあるわけない。ぶんぶんって音がしそうなほど、急いで首を振った。

「ううん、凄く嬉しい。だけど藤倉君て、バス通だよね?」

 そんな私に、彼は嬉しさを滲ませた苦笑を返す。

「月島の家の前を通るバスに乗ってるんだから、送り届けたらその後最寄りのバス停から乗って帰るよ」

 窓から入る弱い風が、彼の半袖シャツの裾を僅かにはためかせていた。そこから伸びる腕は、当たり前だけど、私とは全然違う。屋内の部活動だからそこまで日焼けはしていないけど、太くて、そして筋と血管が綺麗に浮き出た、まさに男の子のもので。
 私は今更ながらそんなことに、物凄くドキリとした。

 ――触れてみたい。

 唐突にそう思った。
 みんなが見ているなんてそんなこと、すっぽりと頭から抜け落ちていて、艶っぽい彼の腕が無性に触りたくなった。どうしちゃったのか、自分でもよく分からない。普段なら絶対しないような行為なのに、このときばかりはその衝動が抑えきれなくて。

「つ、月島?」

 触れた瞬間ビクリとなった彼は、焦ったように私の名前を呼んで、私も慌てて手を離した。

「ご、ごめん」

 しなやかな筋肉に覆われたその腕が、何度も私を支えてくれた。体だけじゃない、心もだ。だから、思わず触わりたくなってしまったのだろうか?

「ううん、驚いただけ。意外と凄いだろ?」

 彼は、力こぶを作る仕種をする。

「う、うん。流石に毎日鍛えてるだけあるね」
「月島は、折れちゃいそうだな」

 藤倉君の視線は、同じように半袖シャツから覗く私の腕へと注がれていた。

「あはは。私も意外と力持ちなんだよ」

 同じように、力こぶを作る真似をする。でもできるわけなんてないから、内側から押して偽装することも忘れない。
 すると彼は笑いながらそこを摘んだ。

「こんな柔らかいこぶ、触ったことないよ」

 自分が先にやったくせにまさか触られるとは思ってなくて、私は焦って手を下ろす。同時に、赤くなってしまった顔を隠すため慌てて俯いた。

「わ、悪い」

 今度はそれに気付いた藤倉君が、謝ってくる。
 でも私はそれにも急いで首を振った。顔はまだ、上げられなかったけど。

「い、嫌だったんじゃないからね」

 言葉の大切さを知る今だから、誤解されないようにすぐ訂正を入れた。

「分かってるよ。月島の気持ち、多分手に取るように分かる」

 その言葉に恐る恐る顔を上げれば、そっぽを向いた藤倉君の耳が、綺麗に赤く染まっていた。

 恋には百戦錬磨、そんなイメージを持っていた藤倉君だけど、よく考えれば、中学時代も高校時代も告白されたとはしょっちゅう聞いたけど、付き合っているとは聞いたことがない。恋愛に関しては、私と同じ初心者マーク。似た者同士なのかもしれなかった。

「一緒に帰るの、待ち遠しい。部活終わったら、正門の所で待ってるね」

 だから私は、自分が言われて安心する言葉を口にする。そうすればきっと、同じ気持ちの私たちは上手くいく。

「うん。待ってて」

 藤倉君は嬉しそうにはにかんで、私はそれが間違いでなかったことにほっとした。

 ぬるい風が吹き抜ける。
 私たちは夏特有の刺すような日射しに照らされながら、並んで教室へと引き返した。
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