魔法が解けた、その後も
Epilogue
1
今日はおかしな天気だった。雹なんか降って、暫くして雪になったと思ったら、昼過ぎには晴れてしまった。
滅多に降ることなんてない雹。でもそれがまた特別って感じで、俺は結構好きだったりする。氷の粒が奏でる非日常の音。トタン屋根の下で出くわした日なんかには、いつぶち破られるんじゃないかってハラハラするのが堪らない。年甲斐もなくテンションが上がる、まあそんな理由もあったりする、けど……でも本音は違う。
俺には、大切な思い出があるんだ。雹が降る度に必ず思い出す、必死で健気な、優しい女の子の思い出が。って言っても、向こうは知る由もない、一方的な思い出なんだけど。
もっとも最近では、その子の視界にどうやって入るか、俺はそんなことばかり考えていたりする。
小さくため息を吐く。
久々に降った今日の雹は、俺に味方した、そう思ったんだけどなぁ、なんて。
バスに揺られながら、月島さんのコートと鞄を見つめる。
具合が悪いと聞いたから、何か見舞いの品でも持参した方が良かっただろうか。急ぐあまりそこまで頭が回らなかった自分を、今更のように後悔した。
日は既に落ちていて、ちらほら現れるコンビニと、結構な間隔を空けて並ぶ街灯以外、あまり明かりは見当たらない。思ったより遅くなってしまった。
その原因でもある、夕暮れ時の出来事に思いを馳せる。
まさか琴平が、あんな大胆な行動を取るなんて思ってもみなかった。
考えてみれば「音楽室に忘れ物したんだけど、ベートーヴェンの目が光ったら怖いからついてきて」なんて、今時学校の七不思議でも取り上げられないような棒読みの台詞、あからさまに怪しかった。俺の知る琴平は、幽霊なんて非現実的なものは信じていない節があったし、もし現れたとしたって、持ち前の度胸とよく回る口で撃退できるに違いない。
まあ今思えば、彼女も緊張していた、そういうことなんだろう。
で、蓋を開けてみれば、忘れ物なんて当然なくて、それは熱烈な抱擁と愛の告白だった。
勿論、嬉しくなかったと言えば嘘になる。学校一モテる女の子と言っても過言じゃないほどの、可愛くて優秀な子だ。
でも俺は、それに応えることはできなかった。ずっと小さい頃から、想いを寄せる女の子がいるからだ。
――あれは、小学校二年生の冬。今日みたいに、珍しく雹の降った日だった。
俺は友達と公園で遊んでいて、夢中になるあまり雲行きが怪しくなっていたことに全く気付いていなかった。ぽつりと頬に当たった冷たさに漸く空を見上げれば、そこから先は驚くほど早かった。バケツをひっくり返したような雨は、瞬く間に凍てつく氷に姿を変え、俺と友達は右往左往。遊具の中に隠れてはみたものの、あまりの恐ろしさに急いで帰った方が良いんじゃないか、そういう話になってそいつとはその後すぐ別れた。今なら絶対止むまで待つけど、そのときは怖くて怖くて、とにかく早く大人がいる所へ行って安心したかったんだ。
男の俺でも、あの頃はまだガキだったから足が震えるほどで。なんとか急いで家を目指すけど、竦む上に子供の足じゃ結構遠くて、半泣きだったのを覚えてる。
でも、とある家の前に差し掛かったときだった。
「美麗、何してるの! 危ないから早く入りなさい!」
女の人の怒鳴り声がして、俺は思わず立ち止まった。
庭先に目を向ければ、俺と同じくらいの女の子が、激しい雹の中、何故かしゃがみこんでいる。
何してるんだ? そう思ってよくよく覗いてみると、彼女は自分が濡れるのも厭わずに、花壇に向かって傘を差し出していた。
そこには、雹のせいだろうか、少しだけ葉の欠けた植物が三つほど並んで植わっていて、どうやら懸命にそれを守っているようだった。
氷の粒が容赦なく打ち付けるからだろう。時折痛そうに顔を顰めていて、俺だって正直そのときは、こいつ何考えてんだ? と思ってしまった。
でも次に発せられた一言は、当時の俺の中には微塵も存在しない考えで、大いに戸惑わされたのだ。
「やだっ! だってお花さんも生きてるもん! 痛いって泣いてるかもしれないじゃない!」
ぽかーん。
そのときの俺の表情は、まさにそんな言葉がぴったりだったと思う。
……は? 花が……生きてる? 泣いてる?
そう、俺は全く意味が理解できなかったのだ。
けど降り注ぐ氷の粒は、益々勢いを強めていて、俺は我に返ると家路を急いだ。
走りながらも女の子の言った言葉が何だか忘れられなくて、そのお陰で少しだけ恐怖心が和らいだのはありがたかった。
滅多に降ることなんてない雹。でもそれがまた特別って感じで、俺は結構好きだったりする。氷の粒が奏でる非日常の音。トタン屋根の下で出くわした日なんかには、いつぶち破られるんじゃないかってハラハラするのが堪らない。年甲斐もなくテンションが上がる、まあそんな理由もあったりする、けど……でも本音は違う。
俺には、大切な思い出があるんだ。雹が降る度に必ず思い出す、必死で健気な、優しい女の子の思い出が。って言っても、向こうは知る由もない、一方的な思い出なんだけど。
もっとも最近では、その子の視界にどうやって入るか、俺はそんなことばかり考えていたりする。
小さくため息を吐く。
久々に降った今日の雹は、俺に味方した、そう思ったんだけどなぁ、なんて。
バスに揺られながら、月島さんのコートと鞄を見つめる。
具合が悪いと聞いたから、何か見舞いの品でも持参した方が良かっただろうか。急ぐあまりそこまで頭が回らなかった自分を、今更のように後悔した。
日は既に落ちていて、ちらほら現れるコンビニと、結構な間隔を空けて並ぶ街灯以外、あまり明かりは見当たらない。思ったより遅くなってしまった。
その原因でもある、夕暮れ時の出来事に思いを馳せる。
まさか琴平が、あんな大胆な行動を取るなんて思ってもみなかった。
考えてみれば「音楽室に忘れ物したんだけど、ベートーヴェンの目が光ったら怖いからついてきて」なんて、今時学校の七不思議でも取り上げられないような棒読みの台詞、あからさまに怪しかった。俺の知る琴平は、幽霊なんて非現実的なものは信じていない節があったし、もし現れたとしたって、持ち前の度胸とよく回る口で撃退できるに違いない。
まあ今思えば、彼女も緊張していた、そういうことなんだろう。
で、蓋を開けてみれば、忘れ物なんて当然なくて、それは熱烈な抱擁と愛の告白だった。
勿論、嬉しくなかったと言えば嘘になる。学校一モテる女の子と言っても過言じゃないほどの、可愛くて優秀な子だ。
でも俺は、それに応えることはできなかった。ずっと小さい頃から、想いを寄せる女の子がいるからだ。
――あれは、小学校二年生の冬。今日みたいに、珍しく雹の降った日だった。
俺は友達と公園で遊んでいて、夢中になるあまり雲行きが怪しくなっていたことに全く気付いていなかった。ぽつりと頬に当たった冷たさに漸く空を見上げれば、そこから先は驚くほど早かった。バケツをひっくり返したような雨は、瞬く間に凍てつく氷に姿を変え、俺と友達は右往左往。遊具の中に隠れてはみたものの、あまりの恐ろしさに急いで帰った方が良いんじゃないか、そういう話になってそいつとはその後すぐ別れた。今なら絶対止むまで待つけど、そのときは怖くて怖くて、とにかく早く大人がいる所へ行って安心したかったんだ。
男の俺でも、あの頃はまだガキだったから足が震えるほどで。なんとか急いで家を目指すけど、竦む上に子供の足じゃ結構遠くて、半泣きだったのを覚えてる。
でも、とある家の前に差し掛かったときだった。
「美麗、何してるの! 危ないから早く入りなさい!」
女の人の怒鳴り声がして、俺は思わず立ち止まった。
庭先に目を向ければ、俺と同じくらいの女の子が、激しい雹の中、何故かしゃがみこんでいる。
何してるんだ? そう思ってよくよく覗いてみると、彼女は自分が濡れるのも厭わずに、花壇に向かって傘を差し出していた。
そこには、雹のせいだろうか、少しだけ葉の欠けた植物が三つほど並んで植わっていて、どうやら懸命にそれを守っているようだった。
氷の粒が容赦なく打ち付けるからだろう。時折痛そうに顔を顰めていて、俺だって正直そのときは、こいつ何考えてんだ? と思ってしまった。
でも次に発せられた一言は、当時の俺の中には微塵も存在しない考えで、大いに戸惑わされたのだ。
「やだっ! だってお花さんも生きてるもん! 痛いって泣いてるかもしれないじゃない!」
ぽかーん。
そのときの俺の表情は、まさにそんな言葉がぴったりだったと思う。
……は? 花が……生きてる? 泣いてる?
そう、俺は全く意味が理解できなかったのだ。
けど降り注ぐ氷の粒は、益々勢いを強めていて、俺は我に返ると家路を急いだ。
走りながらも女の子の言った言葉が何だか忘れられなくて、そのお陰で少しだけ恐怖心が和らいだのはありがたかった。