La liberté
第三章
想
それから父は変わりました
悪い方へ
悪いことをしたら叱られるのは当たり前
それは小学生でもわかることでしたが
自分の気分が良くないときイライラしているとき
何故か私にだけ強く当たるようになりました
躾では済まされないようなことが沢山ありました
時代が今だったら良かったのにと最近よく思います
妹と喧嘩をしたとき私に包丁を握らせやるなら殺せ
怖くなり私が泣き出してしまうと殴られて怒鳴られる
殴る、蹴る、飲んでいたお茶をかけられる、外に放置
それってテレビとかでやるザ・虐待じゃんって思う方
そうですよ
ザ・虐待は昔は躾で片付けられたんです
祖母は何度も何度も助けてくれました
涙を流しながら父に言った言葉を私は忘れません
『 子供に手をあげるんなら私を殺せ 』
曲がった腰で心臓も弱くペースメーカーが入った体
そんな弱い祖母を父が投げ飛ばした日を忘れません
その日から私は祖母を守れるのは私だけだと思いました
私が生まれた頃には戦死していた祖父
祖父は写真と祖母の話でしか知りません
真面目で頑固だったという祖父の元へ嫁いだ祖母
祖父は十三人兄妹で祖父以外の兄妹は健在していました
嫁いできた祖母は祖父が亡くなってから
肩身の狭い思いをしていたのは幼いながら解りました
祖父の兄妹たちは近所に密集するように住んでいました
暇さえあれば訪れて祖母に罵声を浴びせていました
祖母は心臓が弱く飲んでいる薬の副作用で眠気があり
洗濯物を畳みながら縁側で寝てしまったりすることもあり
祖父の兄妹たちから【 恥さらし】と言われていました
母がいなくなってからは頻繁に来るようになった親戚たち
祖母は店の仕事、家事、私たちの子守りまでしていて
七十歳の祖母の身体には、かなりの負担だったと思います
それに加え薬の副作用で料理中に眠ってしまい
鍋を焦がしてしまうこともたくさんありました
鍋を焦がしては罵声を浴びせられていた祖母
曲がった腰で台所に立つ祖母の後姿は小さくて
背伸びをしないと蛇口に手が届かないくらい小さくて
私を体を張って守ってくれる優しい祖母が大好きでした
そんな祖母を虐める親戚たち
幼い頃から汚い大人を見て来ました
祖母が罵声を浴びせられないように一緒に料理をして
一緒に洗濯物を畳んで家事は祖母から学んで行きました
母の味は良く覚えていませんが祖母の味は覚えています
【 煮物 】私が今、得意とする料理となりました
親戚から祖母への罵声は日常茶飯事で
挨拶をするかのように繰り返されていました
それを見る度、聞く度に嫌な気持ちになりました
祖母は言い返すことなく、いつも謝っていました
祖母に一度『 なんで謝るの???』と聞いたとき
祖母は言いました『 悪いことをしたら謝らないと』と
小学生の私から見て祖母は悪いことなんてしていない
何が悪いことなんだろうと不思議に思っていました
今、思えば祖父のための我慢だったのでしょうか
そう思うと今でも胸が締め付けられるほど苦しいです
祖母は何を楽しみに生き甲斐に生きていたんでしょうか?
家で外食に行くとき祖母は必ず留守番をしました
母がいなくなり親戚が家によくいるようになったころ
外食に行くとなったとき最初から祖母は数えられずに
『 ばぁさんは留守番 』と言われていました
家で一人、店の残り物を食べる祖母に心が痛みました
私が小学校五年生になったころ少し早い反抗期になり
外食は祖母と一緒に留守番をするようになったとき
祖母が言った『 お姉ちゃんと食べるごはんは美味しい 』
その言葉で私は泣きそうになったのを覚えています
誰だって会話もせずに黙々も食べる食事なんて嫌なはず
それが当たり前になって慣れてしまったら悲しいことです
大人になってからこの祖母の言葉は身に染みました
祖母が出掛ける日は月に一回場所は【 病院 】
月に一回の通院日が祖母にとってのお出掛けでした
病院に行って帰ってくると必ずお土産がありました
病院の売店で販売されている、おいなりさんやお饅頭
祖母は必ずと言っていいくらい買って帰って来ました
病院の食堂で食べるものが祖母にとっての外食で
病院の売店で買ってくるものが祖母にとってのお土産
仕事、家事、子守りまであった祖母には
その買い物が楽しみだったんだと今は思います
親戚には毎回のように言われていた
『 病院に行くたびに余計な物を買ってきて 』
しかし祖母は、その買い物だけは辞めませんでした
祖母の小さな反抗だったんでしょうかね
昭和を生き抜いた女性は強くて美しくて儚い
譲れないものは誰にだってあると思います
それを貫けるか貫けないかは自分次第
他人に相談するより己を信じてください
悪い方へ
悪いことをしたら叱られるのは当たり前
それは小学生でもわかることでしたが
自分の気分が良くないときイライラしているとき
何故か私にだけ強く当たるようになりました
躾では済まされないようなことが沢山ありました
時代が今だったら良かったのにと最近よく思います
妹と喧嘩をしたとき私に包丁を握らせやるなら殺せ
怖くなり私が泣き出してしまうと殴られて怒鳴られる
殴る、蹴る、飲んでいたお茶をかけられる、外に放置
それってテレビとかでやるザ・虐待じゃんって思う方
そうですよ
ザ・虐待は昔は躾で片付けられたんです
祖母は何度も何度も助けてくれました
涙を流しながら父に言った言葉を私は忘れません
『 子供に手をあげるんなら私を殺せ 』
曲がった腰で心臓も弱くペースメーカーが入った体
そんな弱い祖母を父が投げ飛ばした日を忘れません
その日から私は祖母を守れるのは私だけだと思いました
私が生まれた頃には戦死していた祖父
祖父は写真と祖母の話でしか知りません
真面目で頑固だったという祖父の元へ嫁いだ祖母
祖父は十三人兄妹で祖父以外の兄妹は健在していました
嫁いできた祖母は祖父が亡くなってから
肩身の狭い思いをしていたのは幼いながら解りました
祖父の兄妹たちは近所に密集するように住んでいました
暇さえあれば訪れて祖母に罵声を浴びせていました
祖母は心臓が弱く飲んでいる薬の副作用で眠気があり
洗濯物を畳みながら縁側で寝てしまったりすることもあり
祖父の兄妹たちから【 恥さらし】と言われていました
母がいなくなってからは頻繁に来るようになった親戚たち
祖母は店の仕事、家事、私たちの子守りまでしていて
七十歳の祖母の身体には、かなりの負担だったと思います
それに加え薬の副作用で料理中に眠ってしまい
鍋を焦がしてしまうこともたくさんありました
鍋を焦がしては罵声を浴びせられていた祖母
曲がった腰で台所に立つ祖母の後姿は小さくて
背伸びをしないと蛇口に手が届かないくらい小さくて
私を体を張って守ってくれる優しい祖母が大好きでした
そんな祖母を虐める親戚たち
幼い頃から汚い大人を見て来ました
祖母が罵声を浴びせられないように一緒に料理をして
一緒に洗濯物を畳んで家事は祖母から学んで行きました
母の味は良く覚えていませんが祖母の味は覚えています
【 煮物 】私が今、得意とする料理となりました
親戚から祖母への罵声は日常茶飯事で
挨拶をするかのように繰り返されていました
それを見る度、聞く度に嫌な気持ちになりました
祖母は言い返すことなく、いつも謝っていました
祖母に一度『 なんで謝るの???』と聞いたとき
祖母は言いました『 悪いことをしたら謝らないと』と
小学生の私から見て祖母は悪いことなんてしていない
何が悪いことなんだろうと不思議に思っていました
今、思えば祖父のための我慢だったのでしょうか
そう思うと今でも胸が締め付けられるほど苦しいです
祖母は何を楽しみに生き甲斐に生きていたんでしょうか?
家で外食に行くとき祖母は必ず留守番をしました
母がいなくなり親戚が家によくいるようになったころ
外食に行くとなったとき最初から祖母は数えられずに
『 ばぁさんは留守番 』と言われていました
家で一人、店の残り物を食べる祖母に心が痛みました
私が小学校五年生になったころ少し早い反抗期になり
外食は祖母と一緒に留守番をするようになったとき
祖母が言った『 お姉ちゃんと食べるごはんは美味しい 』
その言葉で私は泣きそうになったのを覚えています
誰だって会話もせずに黙々も食べる食事なんて嫌なはず
それが当たり前になって慣れてしまったら悲しいことです
大人になってからこの祖母の言葉は身に染みました
祖母が出掛ける日は月に一回場所は【 病院 】
月に一回の通院日が祖母にとってのお出掛けでした
病院に行って帰ってくると必ずお土産がありました
病院の売店で販売されている、おいなりさんやお饅頭
祖母は必ずと言っていいくらい買って帰って来ました
病院の食堂で食べるものが祖母にとっての外食で
病院の売店で買ってくるものが祖母にとってのお土産
仕事、家事、子守りまであった祖母には
その買い物が楽しみだったんだと今は思います
親戚には毎回のように言われていた
『 病院に行くたびに余計な物を買ってきて 』
しかし祖母は、その買い物だけは辞めませんでした
祖母の小さな反抗だったんでしょうかね
昭和を生き抜いた女性は強くて美しくて儚い
譲れないものは誰にだってあると思います
それを貫けるか貫けないかは自分次第
他人に相談するより己を信じてください