【短編】いとしの魔王陛下

 もやもやとした気持ちを引きずりながら、成すすべもなく過ごしていたある日の午後。
 お茶を届けに陛下の執務室の前まで来たジェシカは、扉の前で足を止めた。
 楽しそうな笑い声。
 ひとつはジェシカの大好きな、甘く深い男性のもので、もうひとつは最近よく耳にするようにになった娘の…
「…」
 あまりにも悔しくて、ジェシカは呆然とする。
 自分のほうが、ずっと長く、ずっと近くにいたのに。
 それでも畏れ多くて、手を伸ばせなくて、ただお仕えする一人でいるだけで満足だと、自分に言い聞かせて。
 それなのに、ものの分別がつかないあの小娘はあっという間に、陛下の隣に――――
「…」
 ジェシカは震える息をはいた。
 大人げない。
 なまじっか見た目が近いせいで忘れがちだが、相手は二十年も生きていないような幼い子どもだ。同じ土俵で腹を立てるほうがどうかしている。
 お茶が冷めないうちにと、ジェシカは扉をノックした。
「どうも…」
 開けてくれた従僕の青年にお礼を言いつつ、ジェシカはさっと室内を見回す。
 やはりいた。
 珍しい水色の髪を高く結い上げて、今日もはしたない格好で、少女は陛下の隣に立っていた。
「失礼致します。お茶をお替えします」
 ジェシカは強引に笑顔を作る。
「あっ、お疲れー」
 能天気に、こちらに手を降るのは勇者だ。
 それを無視して、ジェシカは執務机の脇にワゴンを留めた。
「陛下、失礼致します」
「うん」
 手元の書面から顔を上げて、陛下は微笑んだ。
「おや、ジェシカか。今日は当たりだな」
「?」
「早く淹れておくれ」
 内心首を傾げながらも、ジェシカは手早く支度をする。
 冷めた杯を下げて、温めた杯に銀の茶こしを乗せる。
 茶葉はジェシカのブレンドだ。苦すぎず、甘すぎず。何回も何回も試した。
 程よく蒸らされたルビー色のお茶が注がれると、湯気と共に芳醇な香りがふわりと立ち上る。
「よい香りだ」
 ジェシカの手際を眺めていた陛下が頷いた。
 杯を手にすると、形のよい鼻先でさらに香りを楽しんで、
「…そう、これこれ」
 満足そうに笑った。
 確かめるように口をつけて、再び頷く。
「陛下?」
「お茶とはかくも繊細なものだ」
 不安げなジェシカを、陛下は悪戯っぽく見上げた。
「ひきかえ、この娘はなにかと不器用での」
 顎をしゃくられた勇者は顔を赤くする。
「別に今、私の話をしなくてもいいじゃん!」
「このとおり、がさつというか大雑把なたちなもので、お茶にも性格が表れるのだ」
 陛下は愉快そうに笑うとおもむろに立ち上がって、ジェシカの肩に手を置いた。
「いつもありがとう、ジェシカ」
「へ、へいか」
 至近距離で輝く美しい笑顔にジェシカの体が強ばる。
「僕は君の淹れてくれるお茶が一番好きだよ」
 逃げる間もなかった。
 ふいに肩に置かれた手に力が込められたかと思うと、陛下の唇が「ちゅっ」と軽く額に触れた。
「!!」
「近頃元気がないが、僕にも言えないことか?」
「あっ、えっ、いえ、その!」
「若い娘はただ笑っているだけで価値のあるものだ。笑顔でいなさい、ジェシカ」

 …そこから先の記憶はあまりない。
 気づけば厨房に茶器を下げに来ていて、
「というわけで、よろしくね」
 なぜか傍には『人間』の小娘がいた。
「…はっ?」
「大丈夫だって! お茶の淹れ方くらい、すぐ覚えるから!」
「なんですって…?」
 呆然とするジェシカをよそに、勇者は一人頬を膨らませる。
「ほんと、あいつ失礼だよね! 人がせっかく淹れてやったのに『これはお茶ではないな』とか言うんだよ。しかもすごくキラキラした笑顔で!」
 ギャフンと言わせてやる!と息巻く勇者を眺めているうちに、段々と記憶が―――
『よければこの娘にも、君の素晴らしい腕前を少し分けてやってくれないか』
『君以上の適任者はおるまいよ』
『信頼しているよ、ジェシカ…』
 そうだった。
 ありがたき王命がこの私に!
「…分かりました、勇者さん。私があなたにお茶の淹れ方を教えてあげます。態度によっては、秘伝のブレンドも教えてあげましょう」
「やった!」
「ただし!」
 喜ぶ勇者の目の前に「びしっ」と指を突きつける。
「まずは衣服から改めなさい。そのような小汚い格好で陛下に近寄って…陛下にノミでも付いたらどうするのですか」
「はっ? ノミなんていないし!」
 勇者はショックを受けたようだったが、構うものか。
 そう、相手は所詮『人間』の子どもだ。
 戦争は終わったのだから、蒙昧な存在を温かく導くことこそが魔族の役割ではないのか。
 『信頼しているよ』―――ジェシカの脳裏で、甘い声が何度も蘇る。
「とにかく居ずまいからです。いいですね?」
「綺麗なのに…」
「お返事は?」
「…はーいー」
 歯の隙間から嫌そうに息をはく勇者に、ジェシカはにっこりと笑った。
 俄然、やる気が出てきた!
「野良犬だって、躾次第ではそれなりになるはずです! ビシバシいきますので覚悟してください」
「えぇー…?」
 ジェシカはスカートをひらりとひらめかせると、天に向かって恭しく手を組んだ。
 あぁ、偉大なる魔王陛下…。
 陛下にはなにもかもがお見通しなのですね。
 これからもジェシカは陛下のお言葉を尊び、心を尽くし、笑顔で努めることを誓います―――


 それからしばらくの間、洗顔のたびにちょっとためらうジェシカの姿が目撃されるのだった。
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