ハナノユメ
 けれども、ピアノの音色が変わったのをきっかけに、花は現実に引き戻された。それは同じ弾き手であっても、全く違うものだった。今までのトロイメライがほんの遊び弾きだったかのように、つよく、はげしく、うつくしい調べ。花は、小松が凄腕の弾き手だということを思い出した。正確なリズム、技巧、強弱などのただ技術があるというだけではない。魂を込めた音色は、花の心にじんじんと沁みる。
そのピアノの響きは、花が欲しても決して手の届かないものであった。この音色に祝福をのせたら、いったいどんなものができあがるのだろう。幾重にも幾重にも重ねた音にのった祝福は、古の祝福のように無限の可能性がありそうだ。花は空恐ろしくなるとともに、先ほどの楽しい気分はどこへやら、気分が沈んだ。
 花は東の地の辺境に住む一族の一人娘だった。少し裕福な庶民より質素な暮らしの、田舎の落ちぶれた貴族に過ぎなかったけれど、父と母は優秀な音楽の才と祝福を持ち、わずかばかり家の華やぎが盛り返していた。特に母は、花が小さいころに亡くなったけれど、特別な祝福を持っていて、娘にもその才が受け継がれていると期待されていた。
しかし、今のところ、花には音楽の才も母譲りの祝福の片鱗も見当たらなかった。ピアノは物心つく前から弾いていたが、花がいくら練習しても、この弾き手の足元にも及ばないだろう。祝福についても、同級生の友人たちが次々と自分の祝福を見つけて開花していくのを、ただ見ているだけだった。花は一族の中でも学校でも、落ちこぼれのレッテルを貼られようとしていた。
 だが花は元来あまり思い悩むたちではなかった。風に乗って届く調べに心底感動し、弾き手を尊敬した。そして疑問に思う。旋律はどこかもがくような、苦しい響きになった。光の揺蕩う水面に手を伸ばして、空気を欲して泳ごうとするけれど、どんどん沈んでゆく。そんな印象を受けた。弾き手の苦しみが花に迫ってくるようだった。こんなに苦しくも心を揺さぶる演奏ができるなんて、いったいどういう人生を歩んできたのだろうか? おそよ、何不自由はなく暮らしてきた花の考えの及ばぬところであった。

 いつの間にかピアノの音色が止んでいた。ラシェッドは練習には来ないようだった。肌寒くなってきたので花は女子寮に帰ることにしたけれど、ふと腕を動かしたら痛みが走り、見ると出血していた。先ほど樹から落ち損なった時に擦ったらしい。花はハンカチを取り出して傷口に当てた。友人のユリアが刺繍を施してくれたもので、不注意からよく傷を作る花は、このハンカチを重宝していた。ユリアの祝福は良く効いた。痛みがすっと引いてゆく気がする。
 刺繍はルーセ伝統の祝福だ。古来より伝わる模様がいくつもあり、一糸一糸気持ちを込めて縫うことで祝福する。例えばユリアが刺繍してくれたハンカチには癒しの模様が入っているので、普通のハンカチを使うよりも少しだけ痛みが早く引き、少しだけ止血が早くなる。刺繍は誰にでもでき、扱いやすいためあらゆるものに利用されていた。模様の種類も豊富で、中等部の頃はよく授業で刺繍をする時間があった。
祝福は思春期にあらわれ始める。低学年のうちはまだ祝福の開花しているもの、いないものがいるので、座学が中心だが、最初の三年間で、生徒たちは自分の祝福をみつけ、それを自分がどう使えるか模索する。高等部になってからは、より高度な祝福、自分の専門を見つけて学ぶのだが、花は自分が何に向いているのかわからなかった。
祝福とはルーセの民の根幹ともいえる力だが、個々で力の強さがまるで違った。また、旧時代の古の祝福は、魔法のようなことができたらしいが、時がたつにつれて祝福の力は弱まってゆき、今では祝福のほとんどがおまじない程度の力しか発揮できない。古の祝福に近い力がある者は稀であった。逆に、ごくまれに、祝福の力を持たず生れてくる者もいた。花は、いっこうに出現しない自分の祝福のことを考えると、自分には力が無いのかもしれないと思うようになっていた。そうだったら、どうしようか? もしも自分に祝福の力が最初からなかったのなら、開花を待っても仕方がない。ルーセでは過ごしにくいかもしれない。この国の人々は、ほかの世界、と呼んでいるが、祝福という概念のない、他国に行く者もわずかだがいる。花の一族や、黒川家もだけれど、極東の島国にルーツがあるらしかった。その国をみてみてもいいかもしれないな、と花は思った。
花は止血できたのを確認すると、慣れた手つきで樹を降り、女子寮へと戻った。
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