ゼフィルス、結婚は嫌よ

気をつけて、惑香

美枝子の言葉は興味深かったが、しかしそもそもなぜ義男が自分に気があるのか、コンサート以外でどこかで個人的な出会いでもあったろうか、それがまったくわからなかったので美枝子の云ったことはいまだ惑香にとって眉唾ものだった。ただし美枝子のふだんの感の良さと指摘の正しさは常々知っていたのでまんざらなおざりにもできない。実際それを証明するがごとき一災難がこの時にも起こったのだ。「気をつけて、惑香。イカレポンチがいる」と注意する美枝子の視線の先に遊び人風の男ふたりの姿があった。酒が入っているのが見た目にもあきらかだったが身なりはしっかりしていて、就中ひとりのそれはキザではあったがあきらかにオートクチュール仕立てと思われるシャツ、ズボン、ジャケット、マフラーに白い靴と、一連ものを身につけていた。その伊達男の方が口笛を鳴らしてから「すごいシャンだね、こちら」と近づく惑香を目で指しながら言葉をかけて来た。「ねえ、彼女。俺たちと遊ばない?俺って単刀直入に云って、あそこに停めてあるジャガーの持ち主。そんな身分の男。そう云ったほうが早いでしょ?旨いもん食わせてやるからさ」などとナンパして来た。マドンナの公演の観客だったのならその公演に酔ったものか、それともただ酒に酔っただけか、大勢の帰り客たちが通り過ぎる前で臆面もない。誰であっても声をかけられれば始めは必ず立ち止まって、耳を傾ける真面目な惑香だったが、しかし美枝子の注意通りのことを再認識して委細かまわず通り過ぎようとすると、いきなりその惑香の二の腕をつかんでは男が引き止めた。
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