ゼフィルス、結婚は嫌よ
(未定…)
そしてその時に一郎小父さんの息子たるこの眼前の義男のことを、母から惑香は聞かされたのだということも思い出した。それまでは、前述したように義男という存在を意識したことすらもなく、であるから、なぜ今頃になって突然自分の前に現れ、自分への思いハンパならずを云うのか、とんと惑香には理解できなかったのだ。自分とは一面識もなかった筈…なのに、これはいったいなぜなのか?しかしもっとも彼が義男であることを知らずに今日のマドンナのコンサートや、それ以前にもフジ子ヘミングの演奏会などで彼の存在を認識してはいたのだ。それが義男であることを自分は知らなかっただけだ。ではなぜ義男は素性を自分に明かさなかったのか。いつから自分を見初めてくれたのか…惑香の目は義雄の説明を求めた。
「ええ、その時あなたはご不在でした。
「ええ、その時あなたはご不在でした。
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- #これは舞台用喜劇シナリオです
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これは演劇の舞台用に書いたシナリオです。時は現代で場所はあの「矢切の渡し」で有名な葛飾・柴又となります。ヒロインは和子。チャキチャキの江戸っ子娘で、某商事会社のOLです。一方で和子はお米という名の年配の女性が起こした某新興宗教にかぶれていてその教団の熱心な信者でもあります。50年配の父・良夫と母・為子がおり和子はその一人娘です。教団の教え通りにまっすぐ生きようと常日頃から努力しているのですが、何しろ江戸っ子なものですから自分を云うのに「あちし」とか云い、どうかすると「べらんめえ」調子までもが出てしまいます。ところで、いきなりの設定で恐縮ですがこの正しいことに生一本な和子を何とか鬱屈させよう、悪の道に誘い込もうとする〝悪魔〟がなぜか登場致します。和子のような純な魂は悪魔にとっては非常に垂涎を誘われるようで、色々な仕掛けをしては何とか悪の道に誘おうと躍起になる分けです。ところが…です。この悪魔を常日頃から監視し、もし和子のような善なる、光指向の人間を悪魔がたぶらかそうとするならば、その事あるごとに〝天使〟が現れてこれを邪魔(邪天?)致します。天使、悪魔とも年齢は4、50ぐらいですがなぜか悪魔が都会風で、天使はかっぺ丸出しの田舎者という設定となります。あ、そうだ。申し遅れましたがこれは「喜劇」です。随所に笑いを誘うような趣向を凝らしており、お楽しみいただけると思いますが、しかし作者の指向としましては単なる喜劇に留まらず、現代社会における諸々の問題点とシビアなる諸相をそこに込めて、これを弾劾し、正してみようと、大それたことを考えてもいるのです。さあ、それでは「喜劇・魔切の渡し」をお楽しみください。
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阿漕の浦とはめったにない、めったに起きないことの例えです。三重県津市にある海岸の名前です。その昔にはここら一帯が伊勢神宮に供える魚介類の漁場となっていて一般漁民には禁漁区でした。ところが阿漕という名の漁民がたびたび禁を侵して漁をしたため捕えられ、この海に沈められたそうです。以後の「あこぎな奴」とはこの事件に由来するとか。ところで中宮璋子と佐藤義清との密会の有無が歴史に取り沙汰されますが、仮にこれが事実であったとして、すればこれはまさに阿漕の浦の事次第となるわけです。それは身分の違いから云っても、(男なら許されるが)女から密会を仕組んだことからしても、本朝では許されざることとあいなるわけですね。しかし当時本当に「佐藤とは怪しからぬやつ」「女が浮気・密会するとは」と云って轟々と非難されたでしょうか?これより前の古代で、ある女性が詠んだ「誰そこの屋の戸おそぶる新嘗(にひなみ)にわが背を遣りて斎ふこの戸を」という歌が万葉集に残っています。意訳すれば「小屋の戸を叩くのはだれ?男子禁制の新嘗の祭祀を、亭主を外に追い出してわたしが務めているのに、いったい誰よ?ああ、わたしの浮気相手の男ね。待ってて、いま開けるから」となります。この歌の意味するところは当時男女関係が至っておおらかで、女の主導・男の主導云々もなかったように想像されるということです。古代が母系社会だったこともありますが、その伝統をいくらかでも引きずっていただろうこの璋子と義清の時代においても、「阿漕の浦云々」はそれほどに指弾の対象とはならなかったのかも知れません。「男主体、女は隷属」はこれ以降のことと思われます。すれば佐藤が‘あこぎ’なやつで璋子がふしだらであるとも云い切れない。白河上皇始め性の乱脈が宮中で激しかったことからしても尚更です。出家した佐藤、すなわち後の西行法師がその和歌で璋子を月と詠んでいます。そこには手の届かぬもの、高貴をきわめるものへの尊敬とあこがれが感じられる。でははたして二人における阿漕の浦へいたる、その各々の実態はどのようなものであったのか…それを思索したこの小説です。興味本位、欲望本位に取らなかったのはこれひとへに西行法師の残した和歌ゆえのことです。それは素晴らしいもので、そこに嘘はまったく感じられません。情愛から神仏への愛…をも模索した所以です。
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これは前作「阿漕の浦奇談」の時代を超えた続きです。待賢門璋子が現代に生まれ変わってからのストーリーとなります。みなさんは転生輪廻をご存知ですか?同じ人間(魂)が何回も何回も名と身体を変えて生まれ死に生まれ死にすることを云うのです。では人はいったい何のために生まれ死にを繰り返すのでしょうか。おそらくそこには一回の人生ではカバーしきれない、その人なりの、時代を超えた命題があるからではないでしょうか。にもかかわらず一度死んで生まれ変わってしまうと、およそすべての人がその命題の「め」の字も忘れ果ててしまいます。それどころか前生とまったく同じような人生を、同じ過ちを何度でも仕出かしてしまうのかも知れません。この有り様と、しかしそこから少しでも脱しよう、進歩しようとする、時代を超えて人に内在されたもの(それは果してなんでしょうか?)を描きたくペンを起こしました。彼の西行法師の、今に残る和歌に啓発されて書き出したというのが、前作ともどもそもそもの所以でもあります。換言すれば六道輪廻からの脱出、真の出家の心とは?…が小説の命題となりましょうか。凡夫の私には過ぎた命題ですが、それゆえのカオスへ肉迫しようとする姿が、ひょっとしたらそこにあるやも知れません。笑いながらでもご教示がてらにお読みくだされば幸甚です。
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