一葉恋慕
五千円札であなたと知れます
「そうですかあ…い、いや、そうです、そうです。確かに今は明治27年の2月です」とうなずいてみせ、次にいよいよ彼女の名前を呼んでこの奇跡を確かめ…いや、共有しようとこころみる。「それで失礼ですが、あなたはその…樋口一葉さん…ではありませんか?文芸誌‘都の花’に若松賤子さんや、えーっと、その…」記憶を手繰る私に彼女は「小金井喜美子さん、ほほほ」と助け船を出してくれ、なおかつ自らの一葉なりを認めたのである!まさに「これはこれは」だった。他のいかなる著名人が時代や空間をワープして私ごときに対面してくれようとも、私がこれほど感激し、入れ込むことはなかっただろう。若い頃より今に至るまで彼女の生き方と作品に共鳴すること甚だしかったからである。特に斯く車上生活に追いやられてからは(私を寝かせない、仕事させない、生活を破綻させるという、ある悪意の特定集団のストーカー行為を受け続けて私はこうなった…)頓にその傾向が強まっていた。もっともこの‘一葉好き’はひとり私だけではあるまい?少なからぬ人々が彼女への親近感を抱いていよう?彼女ほど我々日本人に愛され続ける人も少ないのだし、蓋しそれが現五千円札になる事由なのだろうがもっともこれは蛇足である。
「ああ、そうでした」と感謝して続けて「何せあの文芸誌のお顔を覚えていたものですから、あなただとすぐにわかりました。始めまして。私はあなたの大ファンなんです。もっとも今は誰でも五千円札であなたと知れるでしょうが…」と自分ばかりが合点して入れ込んで云う。「五千円札?そんな法外な額のお札などあるのですか?それにファ、ファンとは英語ですか?あの、わたくし、ものを書くわりには至って浅学で、ほほほ。都の花で私の小説を読んでくだすった方ですか?拙作でございましたでしょう」と、私への親近感を示しながらもなお不審げな樋口一葉。
「ああ、そうでした」と感謝して続けて「何せあの文芸誌のお顔を覚えていたものですから、あなただとすぐにわかりました。始めまして。私はあなたの大ファンなんです。もっとも今は誰でも五千円札であなたと知れるでしょうが…」と自分ばかりが合点して入れ込んで云う。「五千円札?そんな法外な額のお札などあるのですか?それにファ、ファンとは英語ですか?あの、わたくし、ものを書くわりには至って浅学で、ほほほ。都の花で私の小説を読んでくだすった方ですか?拙作でございましたでしょう」と、私への親近感を示しながらもなお不審げな樋口一葉。