阿漕の浦奇談

宗教人か?遊行歌人か?

さてそこでである。再び義清の立場にもどるが‘天女’璋子との交わりはかない、のみならず未だ出家願望の身とその折り云ったにもかかわらず、いきなり引導まで乞われては身にこそばゆいどころの騒ぎではなかったろう。それこそ三保の羽衣伝説の伯梁ではないが、天女の生殺与奪の権利まで得た気がしたかも知れない。しかしこの場合生かすとは引導を渡すがごとく璋子の懊悩を晴らし得ることを云い、殺すとは「身に過ぎたるこそ」と、畢竟おのが無能を開陳するしかないことを云う。弘徽殿に於ける最後の別れ同様無念にも後者だったろうが、しかし強い慙愧の念はその折り義清に残ったろう。一方璋子にしても強いうっ屈の果てにしてしまった逢瀬だったのであり、直後義清の将来を慮っては「阿漕の浦ぞ」と突き放す云い方をしたのかも知れない。してみれば義清の内には解決のつかない不安定さのみが残り、それは云ってみれば璋子のうっ屈がそのまま義清に伝播したとも云えるだろう。つまり璋子の懊悩が文字通り肌身感覚でわかり、若くて純粋だった義清にしてみれば強く璋子に感情移入してしまったわけだ。もはや月が月でなくなり、青年哲学にすぎなかった厭世と求道が、無力なおのれへの自己嫌悪とともににわかに現実味を帯びて来た。自己保身争いの宮廷への嫌悪とも合わせ、またさすがに中宮との密通へのお沙汰が思いやられもし、前記近親の二人の死もかさなって「出家GO」とあいなったのだろう。ただし、である。では義清が死出の旅のごとく悲痛きわまりない思いでそれを為したのかというと、それは疑問符を呈さざるを得ない。中世自由人につながる、能因法師以来の、出家というよりはそれに名を借りた遊行詩人願望が彼の中にもともとあって、ひょっとしたらそれが一番強かったかも知れないのだ。それをなし得る受領階級の身だったからこそだが、しかし仏教の厭世と悟りにかこつけてもしそれを画策したとするならば、これは義清の傲慢と云うか、不遜のそしりを些かでも免れ得まい。後世小林秀雄が「(西行が)世を捨てた人物とはとても思われない。むしろ出家を新たな挑戦、冒険とでも捉えているようだ」と論評しているが、まさに宗教人、遊行歌人として新たな人生に挑む、青年佐藤義清の‘両面における’意気込みがそこにはあったのだろう。

   【三保の松原で水浴中の天女……その羽衣を義清は奪ったのか?】
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