阿漕の浦奇談
してやったり!宿敵・得子を嘲笑う璋子
やおら璋子は立ちあがり御座より降り来たって、檜扇を構えながら舞台へとあがって行った。最前止まりそうだったものの師たちの演奏も稀有の舞い手を得てその勢いを取りもどす。「少女子(おとめご)が少女(おとめ)さびすも。唐玉(からたま)を手元(たもと)にまきて、少女さびすも」大歌を歌う拍子(男の主唱者)の声もあわせおこり、その歌詞の内容に染まったかのごとく璋子は若々しげに五節の舞を舞っていく。過去何度も舞を見知ったせいかそれとも人には見せぬ隠れた才能でもあったものか、プロの白拍子にさえ負けぬ見事な手さばき足さばき、その踊りぶりであった。つまずきなどするものかは、緋の長袴をまわし蹴るがごとくサッとさばいて見せるなど、その粋で優雅なことこの上ない。はからずも讃嘆の声があちらこちらからまき起こる。「お美しい!お美しいことよ」「天女ででさえ斯くも優雅に舞うだろうか」とその美を讃え、「ああ、まさか中宮様の舞いを見れるとは、なんとも有難いことじゃ」「いかにも。のちなきことと思われる」などと前代未聞の、また空前絶後の中宮の舞をほめそやす。璋子の胸に昇り竜のごとくだったかっての栄華がよみがえる。花のさかりの絢爛にめくるめく、まさに「少女子(おとめご)がおとめさびする」ような日々に終始していた、その悦楽がよみがえり来たったのである。ここにいるすべての者たちの視線を感じる。誰か満開の花をめでざるや、望月を仰がざるや、その目に応じてこそ我はありなむを…とする賛美のまとであればこその充実、人へのやさしさや、おもいやりが、またその自分をいささかでも人に与えたときの喜びなどが思い出された。はたして我はあまつおとめか…。しかしまさにそのとき、一陣の‘花散らす風’が心に吹いた。目が得子の姿を追い求めている。夫鳥羽の傍らに忌々しくも皇后として座している、その得子のくやしそうな様子が目に入ったとき、あまつおとめは地に落ちた。自分のみを目で追う夫の姿におのが栄華の再来を確信した璋子の顔に快心の笑みが浮かぶ。あまつおとめならぬ、ただの六道の天界の心に応じるように、この時身を包む十二単が生きもののように璋子の身でざわついた。ついで不可思議な感覚が身に襲い来る。中空の、丑寅の方向に目が引き寄せられると思いきや、何と一座の公達らが皆その中空へと上って行き、そちらから自分においでおいでをしているように感じられた。地に墜ちたあまつおとめどころか、逆に十二単が羽衣のようになって我が身をも上へと昇らせて行く。下を見ればそこには得子ひとりだけが取り残されていた。その得子をさして一座とともにさんざんに嘲笑するのだが、はて、ここ十余年来の我恨み辛みを一気に晴らすようなこの椿事快事の出来を、空中浮遊ともども一向に不思議と思はぬ自分が璋子にはどこかで解せないでいた。自分であってないような、あたかも何者かに誘導され、このまま心身を乗っ取られるような気にさえもなる。一瞬危惧の念を覚えたときさらなる快事がこれを掻き消した。なんと夫、鳥羽が、上空から自分に手を差し伸べている。得子ではなく自分に、この璋子に!…満面に笑みを浮かべては檜扇を下に放り投げ、こちらも両手をさしのべつつ璋子が急ぎ夫のもとに寄って行く。天女の羽衣のように開いた檜扇がひらひらと舞って落ちて行くのを受け止めた者がいる。