阿漕の浦奇談
陵王に切られる璋子
ひとしきり鳴った竜笛がこのとき止んだ。
「六道の蛇やある(六道の蛇はいるか)。六道の蛇やある」と大音声に連呼しつつ、恐ろしげな陵王(りょうおう)の仮面をつけた男が舞台へと上がってきた。左手で受けた檜扇をゆっくりとふりながら、右手に抜き身の大剣をふりかざしつつ璋子のまわりを悠々と廻り始める。いつの間にか丑寅の中空から降りて舞台の上に立っている自分を璋子が確認する。公達らももとの席にもどっていた。いきなりの狼藉者の乱入に「こ、これは何者か」と悲鳴に近い声で璋子が糾弾したが誰ひとり取り押さえようとするものがいない。勇猛なる北面の武士たちでさえ恐ろしげに陵王を注視しているばかり、刀の柄に手をかける者もいなかった。陵王ひとりに皆がいすくめられているかのようだ。璋子の十二単が生きもののようにざわつき、その着付けがひとりでにゆるんだと見えたとき、掛け声もろとも陵王が璋子に切りつけた。「ものに狂うか!」璋子が絶叫し床に倒れ込む。どす黒い血がみるみる流れ出したがしかし璋子のものではない。十二単がひとりでに脱げていき床に落ちてひとかたまりとなりさらに変形した。すなわち大蛇のあたまとなってそこより出で来、全身を長く変えながら苦しげに床を這って行く、太刀を受けたところから大量の血が流れ出していた。さらにひもや打ち衣に変じていた中小の蛇たちも大蛇を追って逃れて行った。ついに単衣だけの姿となった璋子がまるでみずからが切られたように苦しんでいる。「璋子様、お気を確かに!」大剣を置いて身を寄せながら陵王が喝を入れ、璋子の手を握った。その手から生気がつたわりくるようで徐々に身が楽になって行く。「あたりを御覧ぜよ」陵王の面を取りながら男が璋子の視線をいざなった。坊主頭のその男にどこか見覚えがあるのだが誰であったかなかなか思い出せない。まわりを見ればいつの間にか内裏は消失していずことも知れぬ暗所に変わっている。その暗闇のなかで六つの炎が二人を取り囲むように揺れていた。その炎のなかから人のうめき声が聞こえて来る。「こ、これはいったい、どういうこと…こ、ここは、ここはいったいどこじゃ。炎の中で…人が焼かれておる!」男の身にすがりながらおびえる璋子に「焼かれなければならないのです。苦しくとも。六道の業火に人の魂は禊がねばなりません」と男がさとす。年のころ六、七十、誰かに似ていた。必死になって思い出だそうとする璋子の目の前で魔法のようにその男の衣装が変わって行く。すなわち派手な陵王のそれから簡素な法師姿のそれへと。
「六道の蛇やある(六道の蛇はいるか)。六道の蛇やある」と大音声に連呼しつつ、恐ろしげな陵王(りょうおう)の仮面をつけた男が舞台へと上がってきた。左手で受けた檜扇をゆっくりとふりながら、右手に抜き身の大剣をふりかざしつつ璋子のまわりを悠々と廻り始める。いつの間にか丑寅の中空から降りて舞台の上に立っている自分を璋子が確認する。公達らももとの席にもどっていた。いきなりの狼藉者の乱入に「こ、これは何者か」と悲鳴に近い声で璋子が糾弾したが誰ひとり取り押さえようとするものがいない。勇猛なる北面の武士たちでさえ恐ろしげに陵王を注視しているばかり、刀の柄に手をかける者もいなかった。陵王ひとりに皆がいすくめられているかのようだ。璋子の十二単が生きもののようにざわつき、その着付けがひとりでにゆるんだと見えたとき、掛け声もろとも陵王が璋子に切りつけた。「ものに狂うか!」璋子が絶叫し床に倒れ込む。どす黒い血がみるみる流れ出したがしかし璋子のものではない。十二単がひとりでに脱げていき床に落ちてひとかたまりとなりさらに変形した。すなわち大蛇のあたまとなってそこより出で来、全身を長く変えながら苦しげに床を這って行く、太刀を受けたところから大量の血が流れ出していた。さらにひもや打ち衣に変じていた中小の蛇たちも大蛇を追って逃れて行った。ついに単衣だけの姿となった璋子がまるでみずからが切られたように苦しんでいる。「璋子様、お気を確かに!」大剣を置いて身を寄せながら陵王が喝を入れ、璋子の手を握った。その手から生気がつたわりくるようで徐々に身が楽になって行く。「あたりを御覧ぜよ」陵王の面を取りながら男が璋子の視線をいざなった。坊主頭のその男にどこか見覚えがあるのだが誰であったかなかなか思い出せない。まわりを見ればいつの間にか内裏は消失していずことも知れぬ暗所に変わっている。その暗闇のなかで六つの炎が二人を取り囲むように揺れていた。その炎のなかから人のうめき声が聞こえて来る。「こ、これはいったい、どういうこと…こ、ここは、ここはいったいどこじゃ。炎の中で…人が焼かれておる!」男の身にすがりながらおびえる璋子に「焼かれなければならないのです。苦しくとも。六道の業火に人の魂は禊がねばなりません」と男がさとす。年のころ六、七十、誰かに似ていた。必死になって思い出だそうとする璋子の目の前で魔法のようにその男の衣装が変わって行く。すなわち派手な陵王のそれから簡素な法師姿のそれへと。